解説者・監督時代とは? わかりやすく解説

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解説者・監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 07:21 UTC 版)

金田正泰」の記事における「解説者・監督時代」の解説

引退後1958年からタイガース二軍監督就任したが、1959年5月21日から一軍コーチとなり、シーズンオフ監督昇格。また金田後ろ盾になってもらおう阪急監督退いたばかりで巨人軍監督藤本定義ヘッドコーチ就任要請一年目1960年エース村山実二年目のジンクス苦しむが、広島とのAクラス争い勝って3位成績を残す。しかし二年目開幕から投打噛み合わず最下位沈み球団6月6日金田休養通告後任は自ら招いた藤本代理監督昇格金田シーズンオフそのまま退団した阪神退団後は日本教育テレビ毎日放送解説者1962年 - 1971年)を経て1972年村山実選手兼任監督請われヘッドコーチとして11年ぶりに阪神復帰開幕から低迷続け4月21日から村山投手専念のために一時的に指揮権譲られ名目上あくまでも村山監督のまま、結果としてすぐに勝率を5割に戻す。役割果たした金田5月13日戸沢一隆球団代表指揮権返上の旨を伝えるが、これに対して戸沢はその必要はないと引き続き指揮執るように指示その後何度も指揮権返上の話が出るが戸沢あくまでも認めず最終的に阪神2位シーズン終了する。そして指揮権奪われたままの村山そのまま引退退団すると共に金田正式な監督昇格したが、表面的にこれが村山請われヘッドコーチになった金田がその村山追い出したように映ってしまい、村山に近い選手たちから激し恨みを買うことになる。 1973年シーズン当初から村山大学後輩に当たる藤井栄治鈴木皖武権藤正利との確執など一部主力選手との対立激化選手コーチさらにはマスコミ二分されていた。その中で一匹狼江夏豊派閥に関係なく、シーズン前一緒に永平寺行きお互いに「ゆたか」「おじき」と呼ぶなど懇意にするほどの仲であったが、一方で江夏野手陣とは特に折り合い悪くシーズン始まった5月江夏言動に不満を抱いているある主力野手が『このままでは他の選手納得してませんよ。江夏を取るか他の選手を取るか決めてくださいと金田に直訴したりして、金田次第主流派であった田淵幸一藤田平など野手重きを置くうになる。 そしてその流れで、ある試合首脳陣ミーティング金田監督江夏投球批判し、それをわざわざ某コーチ江夏耳に入れた事、ローテーションエース江夏ではなく一時的に上田二朗中心にした事などで、これで江夏プライド少なからず傷つき、また5月末の広島遠征中に21年目のベテラン投手権藤正利タバコ吸いながら球場入りしたのを見た金田が『サルでもタバコ吸うんか』とからかったとされ、それを伝え聞いた江夏は、監督へ不信感募らせる。さらにシーズン中にもかかわらず関西大手スポーツ新聞社が面白おかしく対立煽ったこともあり、いつし金田江夏は完全に冷え切った口も利かない状態になっていった。 このようにチーム内部バラバラな状態であったが、ペナントレースリーグ全体大混戦の中で巨人阪神シーズン最終盤までデッドヒートを展開。10月20日と同22日最終戦残り2試合マジック1という状況となった中日戦及び巨人戦は、それぞれの相手に得意としていた上田二朗江夏先発登板予定であったが、直前登板江夏上田変更結果的にこれが裏目に出て連敗してしまい、最終戦巨人逆転優勝V9許してしまった。この起用法について後年になって疑問生じる事もあるが、理由としては上田死のロード迎えた8月12日以降、4勝8敗と急に勝てなくなっており、その前の10月11日巨人戦後楽園)でも打ち込まれている状況で、さらに中日戦迎え数日前から扁桃腺腫らし風邪気味体調悪かったなどの理由このまま上田強行登板させるよりも、藤村隆男一軍投手コーチ相談して江夏エースとしてプライドとその勝負強さ賭けようとなったとされている。なお、この起用について江夏自身自伝で『あとで中日戦上田巨人戦江夏でいけばよかったという声もあったけれど、それは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら、勝ち星の多い方からいくのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということです。』とその起用法理解示している。上田自身もまたこの事について、中日戦登板望んでいたものの、『金田監督確執があるとは言えエースである江夏なんだかんだ言って信頼して最終的に託したのだろう』と振り返っている。 シーズン終了後11月23日阪神ファン感謝デー終了後甲子園球場監督室で権藤から前述暴言対す謝罪求められたが受け入れなかった為、殴打される。藤井栄治金田との対立の末にシーズン終了後太平洋クラブ移籍。それらを踏まえて11月には、江夏が「金田監督の下ではプレーできない」と表明金田12月に「江夏抱えてチーム作り自信がない」と辞意表明するなど紛糾したが、両者意見それぞれ聞く形で収拾乗り出した戸沢代表によって、最終的に金田続投江夏監督に従う事でチームに残る事になった確執解消されることは無かった1974年シーズン前半は首位折り返すが、後半戦失速し一時球団史上最低勝率落ち込み最終的には4位で辞任した同年二軍にいた1年目無名掛布雅之周り反対押し切って一軍抜擢し掛布もそれに応えその後スター街道歩むことになった。この事について掛布は「金田正泰監督がいなければその後僕は存在していなかったかもしれない」と著書金田感謝の意示している。

※この「解説者・監督時代」の解説は、「金田正泰」の解説の一部です。
「解説者・監督時代」を含む「金田正泰」の記事については、「金田正泰」の概要を参照ください。

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