観客死傷事故の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 02:39 UTC 版)
「1977年日本グランプリ (4輪)」の記事における「観客死傷事故の詳細」の解説
レースの模様は当日午後にテレビで録画中継され、事故直後の現場に死傷者が横たわる生々しい映像が放送された。翌10月24日の朝刊各紙は1面と社会面を割いて事故報道を掲載した(以下、詳細は『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』朝刊記事より)。 当時の富士スピードウェイの1コーナー外側には芝生のエスケープゾーンがあり、120mほど奥に高さ1mのタイヤバリアが設置されていた。死傷した観客や警備員はタイヤバリア周辺にいて事故に巻き込まれた。この区域は関係者以外立入禁止であり、外部とは高さ2mのフェンスで区切られていた。 決勝日の朝、裏手の駐車場からフェンスの金網を破ったり入口をこじ開けたりして観客が侵入し、コース脇にまでせり出した。運営側は場内放送で退去するよう呼びかけ、警備員に命じて6度排除させた。1コーナーの監視ポストに安全確認した上で2分遅れでレースを開始したが、スタート直後から300人ほどが再び侵入してきた。10名ほどの警備員では手に負えないため、タイヤバリアの前にロープを張ったが、逆にそこまで入っていいと受取られ、臨時の観客席ができてしまった。観客たちは三脚付きのカメラで撮影したり、テープレコーダーでエンジン音を録音したりしていた。 フェラーリは時速150kmでティレルに追突。バウンドしながらエスケープゾーンを突っ切り、タイヤバリアを飛び越えて裏手の斜面に着地した。ヴィルヌーヴ自身はシャーシに守られて無事だったが、ちぎれ飛んだタイヤや部品に当たって死傷者が発生した。ヴィルヌーヴはマシンの不調で予選から低迷しており、事故後にピットに戻ると、ピーターソンに「ブレーキペダルが戻らなくなってしまった」と謝ったという。 主催者は救護活動に支障はないと判断して赤旗中断せず、黄旗振動のままレースを続行した。7万4千人の観客が混乱しないよう配慮したため、大多数の観客はレース終了後に事故のことを知った。サーキットの救護班と小山町消防署の隊員が出動し、医務室で応急処置してから御殿場病院に搬送したが、負傷者全員を収容するまで1時間半を要した。 静岡県警御殿場署は業務上過失致死傷罪の疑いがあるとして、ティレルとフェラーリの事故車輌を押収。翌10月24日にピーターソン、ヴィルヌーヴ両名およびチーム関係者の立会いのもと現場検証と事情聴取を行った。その結果、国際レギュレーションに則ったレース中のアクシデントと判断し、ヴィルヌーヴを書類送検処分として全員の帰国を認めた。 マスコミ各社は立ち入り禁止区域に観客が侵入した状態でレースを行ったこと、救護活動中にレースを続行したことを挙げて、主催者側の安全管理意識を問うた。さらに、排気ガス公害やオイルショック、スーパーカーブームの異常加熱、暴走族の騒音問題といった1970年代の自動車環境を反映して、モータースポーツの危険性と青少年への悪影響を指摘する内容も目立った。新聞各紙には「疾走の魅力 死と同居」(朝日新聞)、「"弾丸F1"ファンをグサリ "魔のカーブ"血染めの芝生」「過熱が呼んだ惨事 安全対策は"落後"」(読売新聞)、「疾走マシンの魅力に縛られ 忘れられた"危険"」(毎日新聞)という辛辣な見出しが並んだ。 11月10日、日本モータースポーツ協会は残り2年間のF1開催契約を解除するとF1CAに通達した。採算面での失敗、死傷事故の影響から、F1日本開催は1987年の日本グランプリ(鈴鹿サーキット)まで10年間の空白期間に入ることになった。
※この「観客死傷事故の詳細」の解説は、「1977年日本グランプリ (4輪)」の解説の一部です。
「観客死傷事故の詳細」を含む「1977年日本グランプリ (4輪)」の記事については、「1977年日本グランプリ (4輪)」の概要を参照ください。
- 観客死傷事故の詳細のページへのリンク