船橋浦と登戸浦の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:17 UTC 版)
江戸時代中頃から成田山新勝寺の参詣が盛んになるにつれ、江戸と下総国および上総国、安房国方面を結ぶ主要な道である「佐倉街道」は「成田街道」と呼ばれるようになり、その中間に位置する「船橋宿」(現在の船橋市)は交通の要として栄えた。船橋宿に流れる海老川の河口部は船橋浦と呼ばれ、船着場として利用。魚介類、米穀物などの食料品の移出を中心に江戸への頻繁な船便があり、繁栄していた。1615年(元和元年)、徳川家康および徳川秀忠一行が船橋御殿(現在の船橋東照宮)に宿泊、献魚の功から船橋浦が御菜浦(専用磯魚場)に指定される。 都川周辺においても江戸時代末期頃から海運業が盛んとなり、結城浦と呼ばれていた河口は登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)、若しくは曽我野浦(旧曾我野藩、曽我野県、現在の千葉県千葉市中央区蘇我)といった湊と呼ばれ、都川の水運で運ばれた物資を、江戸へと船で運ぶ拠点となっていた。江戸時代後期の浮世絵師である葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「登戶浦」には浅瀬で汐干狩りを楽しむ人々や、貝で一杯になった桶を得意げに運ぶ漁師など当時の活気が描かれている。登戸浦は、江戸築地に荷揚場を持ち、年貢米や海産物を房総半島から江戸に海上輸送する拠点の一つとなった。
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