脱藩まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:33 UTC 版)
土佐国高岡郡芳生野村(高知県高岡郡津野町)の里正(庄屋)吉村太平の長男として生まれる。12歳で父の跡を継いで北川村庄屋となった。後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚。同地で郡役人の間崎哲馬に学問を、また城下に出て武市半平太に剣術を学び尊攘思想に傾倒するようになった。安政4年(1857年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する騒ぎを起こした。この事件のために下分村に転任させられている。安政6年(1859年)に檮原村の大庄屋に移り、よく働き治績を残したという。 文久元年(1861年)武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟。文久2年(1862年)2月、武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞に武市の手紙を渡した。それから九州へ渡って筑前国の平野国臣と出会い、平野から薩摩藩国父島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画(伏見義挙)を聞く。吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかった。やむなく、吉村は宮地宜蔵ら少数の同志を説いて脱藩を決行。この時、藩境の検問が厳重であったために、吉村は武具を調えて馬に乗り、薩摩への使者であると偽って堂々と関所を押し通ったという。吉村の脱藩に触発される形で沢村惣之丞や坂本龍馬らが続いて脱藩している。
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