考古学上の業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:19 UTC 版)
考古学者としての中山の研究テーマは、ほとんどが居住地であった九州北部に関する内容であった。そのうち、考古学史に名を残す功績は以下に示すようなものが挙げられる。 「元寇防塁」の命名1913年(大正2年)、福岡日日新聞に「元寇防塁の価値」という論説を投稿する際、福岡市の海岸線に点在する「石築地」と呼ばれていた石垣群を中山が便宜的に「元寇防塁」と名づけたことがきっかけとなり、以後はこの名称が通称として用いられるようになった。 漢委奴国王印の出土地の考証漢委奴国王印は、江戸時代後期の1784年4月12日(天明4年2月23日)に福岡藩領であった志賀島で発見されたが、具体的な発見場所についての記録は残っていなかった。中山は地元古老の口伝や寺社の記録などを基に、現在「金印発光碑」が建立された場所から少し海岸に近づいた場所にあった水田の中が発見場所と推定した。また中山は、当時一部にあった金印偽物説についても、論証によってこれを否定した。 いわゆる「中間時代」の提唱1917年(大正6年)、中山は「九州北部に於ける先史原史両時代中間期間の遺物に就いて」という長編論文を発表した。それまでの学界では石器時代のあとはそのまま古墳時代に続くと考えられていたが、この論文において中山は、板付遺跡で発見された甕棺墓の中に石器と金属の両方を用いた痕跡が認められたことから、石器・古墳両時代の間にそのどちらとも異なる「中間時代」が存在すると発表した。この「中間時代」はのちに濱田耕作によって「金石併用時代」と呼ばれ、現在「弥生時代」として認知されている時代区分の最初の発見となった。 鴻臚館遺跡の位置特定かつて北九州に存在した平安時代の外交施設「鴻臚館」の位置について、江戸時代以来の通説である官内町説に対して、中山は福岡城址説を主張した。中山の死去から30年以上を経た1987年(昭和62年)、平和台球場の改修工事中に遺構が見つかり、福岡城址説の正しさが立証された(詳しくは鴻臚館#建設位置と発掘調査参照)。 中山の研究スタイルの大きな特徴は発掘を行わないことであり、現地における踏査と表面採集、そして史料や文献の解析を通じ、採集物と遺跡との関係を明らかにするという方法を採った。鴻臚館遺跡の場所を、古代瓦の表面採集や万葉集に詠まれた情景の分析を基に特定したことなどはその典型例といえる。
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