総統飛行隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 08:41 UTC 版)
バウアは、当初ミュンヘンのオーバーヴィーゼンフェルトを拠点としていたヒトラーの個人飛行隊の指揮官に任命された。当時は未だドイツ空軍が設立されていなかった時期であり、ヒトラーはバウアが相応の指揮権力を持つことができるように且つ身分保障として親衛隊員(隊員番号:171,865)の親衛隊大佐(Standartenführer)に任命した。 1933年にベルリンに到着してからのバウアの最初の仕事はヒトラーの飛行隊を拡充し、新しい警備体制を導入することであった。ルフトハンザ航空の支配人エアハルト・ミルヒの承認を取り付け、バウアの防護要求に適合すると称された「リヒトホーフェン」と命名されたJu-52/3Mが1935年に1機追加され、製造番号4021は「ブッデッケ」という名称を持つ製造番号4053に代替された。製造番号4053の機体は登録番号をD-2600に、名称を「インメルマン・ツヴァイ」(Immelmann II)とされた。 1936年にフォン・ヒンデンブルクが死去するとヒトラーは政府を再構築して政府飛行隊(Regierungsstaffell)を創設、そのトップにバウアを据えた。ベルリン・テンペルホーフ空港に本部を置き、バウアは1機に17名を搭乗させることのできる航空機を8機使用してヒトラーの全ての閣僚と軍部高官の飛行とそのパイロットの割り当てを担当した。D-2600機は「ルフトワッフェ・アイン」(Luftwaffe I)と改称されアドルフ・ヒトラーの専用機としてとり置かれた。 総統に就任するとアドルフ・ヒトラーは航空戦の方針と技術的な開発についてバウアの助言に頼ることが多くなってきた。ヒトラーはバウアに飛行隊を熟練のルフトハンザ航空のパイロット達で占め、彼らを来る戦争の準備のために軍隊方式で訓練することを許可した。 クルト・シューマン(Kurt Schuhmann) 副総統ルドルフ・ヘスの専属パイロット マックス・フォン・ミューラー(Max von Mueller) 宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの専属パイロット ペーター・シュトラッサー(Peter Strasser) エーリヒ・レーダー提督の専属パイロット グラーフ・シリー(Graf Schilly) 陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ将軍、ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ将軍の専属パイロット ヒトラーはバウアを菜食主義に宗旨替えさせようとしたが、バウアの40歳の誕生日には総統官邸に招待して好物の豚肉とダンプリング料理でもてなし、バウアの自家用車のフォード車の替わりとなるメルセデス・ベンツ車を贈った。 1939年9月に飛行隊は「総統飛行隊(Die Fliegerstaffel des Fuehrers)」に改称され、ヒトラーの個人飛行隊に所属する全ての機体は機首に細い赤の輪で枠取りされた白地に黒の鷲の頭部をかたどった特別な部隊章を貼り付けていた。 1939年の初めにバウアは、総統の専用機はより安全性の高い新設計のFw 200 コンドルであるべきだと考えた。元々は26座席のルフトハンザ航空の旅客機仕様の機体(製造番号3099)は豪華な装備が施され、登録番号D-2600の「インメルマン・ドライ」(Immelmann III)と命名された。この機体は1944年7月18日の連合国軍による爆撃で破壊されるまで使用された。
※この「総統飛行隊」の解説は、「ヨハン・バウア」の解説の一部です。
「総統飛行隊」を含む「ヨハン・バウア」の記事については、「ヨハン・バウア」の概要を参照ください。
- 総統飛行隊のページへのリンク