結婚・離婚
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「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「結婚・離婚」の解説
その後、Mは埼玉県にいた姉を頼って上京。埼玉県上尾市に転居し、化粧品会社の美容部員として働き、1965年(昭和40年)ごろに自動車のセールスマンだった男性と知り合い、1969年(昭和44年)8月6日に婚姻。同年12月7日に長男を出産した。その後、夫の転職・転勤に伴い、富山・金沢・上尾に移住する日々を送った。 しかし、1972年(昭和47年)に卵巣嚢腫ないし子宮筋腫の手術で入院している間、夫が浮気するようになったことから別居し、長男とともに両親宅(富山市上千俵)へ身を寄せ、1974年(昭和49年)8月14日に協議離婚。同年11月には、腸癒着性腹壁ヘルニアで開腹手術を受けている。一方、同年12月3日には富山結婚相談所に登録し、結婚相手の希望欄には「身長170 cm以上」と記していた一方、相手の希望年齢には「30 - 50歳」と大きな幅があった。この結婚相談所では、1977年9月までに、計13人の男性と見合いをしたが、いずれも結婚話はまとまらずに終わっていた。その中にはMによる保険金殺人の標的にされかけた男性や、後にMがフェアレディZを購入するための資金として150万円を借りた男性(タイヤ販売業者)もいた。 翌1975年(昭和50年)1月に父が死去して以降、前夫からの送金と母親の収入に頼り、母や長男とともに3人で生活していた。なお、Mの母親(Mの逮捕当時69歳)は事件後、石川県の老人ホームに入居したほか、長男(同当時10歳)も前夫(父親)に引き取られた。 Mは富山に帰ってから、多くの推理小説を読んでおり、逮捕後には「身代金の受け取り方法や殺害の手口(睡眠薬で被害者を眠らせ紐で絞め殺す)などいくつかの点は推理小説からヒントを得た」と述べている。実際に、M宅から約60冊の推理小説(高木彬光『最後の自白』など)が逮捕後に押収されている。また、控訴審で弁護人を担当した倉田哲治から、立山連峰の美しさを説かれると、「私はあの山が憎いんです。あの山は、太陽と緑の太平洋と自分を遮る悪党です」と返していたが、倉田はその言葉の真意について「プライドの高いMは、東京での華やかな暮らしに憧れて上京したが、夫の浮気のせいでその夢が破れ、再び富山に帰らなければならなくなったことで挫折感を味わったのだろう」と述べている。
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結婚・離婚
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1991年1月、安全地帯の玉置浩二とハワイのマウイ島にある教会で挙式する。結婚後1年間は芸能活動を完全休業し主婦業に専念した。安全地帯のコンサート・ツアーに同行することもあった。1996年12月に玉置が大腸の炎症になった時、薬師丸は看病するだけでなく生放送の音楽番組に代理で出演し、お詫びの言葉を述べた。 結婚生活は7年半で、1998年6月5日に開かれた薬師丸の誕生パーティーの席で玉置との離婚を発表する。離婚は2人が幸せを掴むためのスタートラインに再度立つことだと述べている。 薬師丸は2016年のインタビューで歌が上手いと思う歌手に玉置の名前を挙げている。
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