結婚、著述、政治
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「ナンシー・ミットフォード」の記事における「結婚、著述、政治」の解説
アースキンと分かれて1か月も経たない内に、ナンシーはレネル・ロッド卿の次男ピーター・ロッドとの婚約を発表した。ロッド卿は外交官かつ政治家であり、その年にレネル男爵として貴族に列せられたばかりだった。ナンシーの友人ハロルド・アクトンに拠れば、ピーター・ロッドは「際限なく将来のある若者であり、選ぶことになったどんな職業でも成功する豊富な資質がある」と評価していた。他の伝記作者は、責任感が無く、不誠実で、退屈で、固定した職に就けない者と表現している。またウォーの作品『黒い悪戯』の無節操で道徳心が無い登場人物バジル・シールのモデルにもなった。二人は1933年12月4日に結婚し、その後ロンドンの西外れにあるストランド・オン・ザ・グリーンのコテージに入った。結婚した当初は喜びに包まれたナンシーだったが、間もなく金の悩み、ロッドの無責任さ、ロッドの家族を嫌悪したことで喜びも無くなっていった。 1934年、ナンシーは3作目の小説『緑地の鬘』に取り掛かった。これはモズレーのファシスト「ブラックシャツ」運動の風刺だった。ナンシー自身は短期間この運動に没入しただけであり、その熱狂は短命で、間もなくファシズムの騒々しい敵対者になった。この小説が出版された1935年にはほとんど書評も書かれなかったが、家族の特にダイアナとユニティという妹二人を怒らせることになった。二人ともモズレーの運動を支持し、次第にドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーを支持するようになっていた。ダイアナは最後はナンシーを許したが、この本の中で愚かな「ユージニア・マルマン」として描かれていたことに怒ったユニティとの間の溝が埋められることはなかった。 1936年までにナンシーの結婚生活はほとんど破綻していた。ロッドは友人の妻との情事にふけるようになり、その状態は新年になっても継続していた。その1937年、19歳の妹ジェシカが従兄弟のエズモンド・ロミリーと駆け落ちしたことで、ミットフォード家が揺り動かされた。反抗的な元ウェリントンの学生で共産主義者を明言していたロミリーは、スペイン内戦で共和国側で戦った後に、傷病兵として家に送り返されていた。この若いカップルはビルバオに行ったことが分かった。二人を連れ戻させるためにナンシーが行ったが、説得できなかった。二人は5月に結婚した。 1937年から1938年の冬、ナンシーの文学活動の中心は、従兄弟のスタンレーズ・オブ・アルダリーの手紙を編集することであり、この従兄弟とは曾祖母のブランシェ・エアリーを通じて繋がりがあった。ナンシーはこの仕事に1日9時間から10時間を使っており、それで時間が費やされることを不快に思ったロッドとの関係をさらに悪くしたと、友人のロバート・バイロンに知らせていた。それでも1938年夏、ナンシーは妊娠したことが分かった。女の子を期待し「1つの家に2人のピーター・ロッドなんて考えられない」と言っていたが、9月に流産した。1939年初期、ロッドがサウス・オブ・フランスに出発し、スペイン内戦の最終段階でフランコ将軍の軍隊から逃げてきたスペイン人避難民数千人を援助する組織で働いた。5月、ナンシーもロッドに合流して救援作業者としてそこで数週間を過ごした。ナンシーはこのとき見たものに動かされた。「私の人生でこれほど泣いたことはなかった」と言っていた。この経験で反ファシズムの感情を硬化させており、「この病気の拡大を防ぐためになら、悪魔と手を握ることもしよう」と書くまでになっていた。 ナンシーは家庭内で政治的に極論に走ることを拒否し、中道的社会主義の立場を採ったが、ヘイスティングスが指摘しているように、それほどの深さも確信も無かった。ナンシーの著作の多く、例えばスタンレーの書簡集への前書き、さらに1995年の随筆『Uと非U』では貴族的な伝統と価値を頑固に弁護している。
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