管理教育に対する反対運動
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1981年(昭和56年)3月7日、管理教育が猛威を振るっていた岡崎市で痛ましい事件が起こった。私立高校への進学が決まっていた岡崎市立城北中学校3年生の男子生徒が万引きの疑いをかけられ、学校から呼び出しを受けた。「集団指導」と称する教師達による査問を受けたのち、午後5時40分頃、校門を出た。そして5時54分、名鉄の岡崎公園前駅ホームから電車に飛び込み、自殺した。『毎日新聞』は同年4月20日から「教育を追う」と題した記事を30回連載し、この事件を大きく取り上げるが、当局者は市民に対して自殺の原因について何ら説明をしなかった。影山は実情の調査を促す運動が必要と考え、1982年(昭和57年)3月、「岡崎の教育を考える会」(略称:市民の会)を発足させた。同年3月5日、岡崎市教育委員会の鈴村正弘教育長は2年8か月の任期を残して辞表を提出。3月31日付で辞職した。 やがて愛知教育大学地球環境科学領域教授の森山昭雄が市民の会に入会する。いじめと教師の体罰により長男と次男が不登校になったのがきっかけだった。 1987年(昭和62年)4月、岡崎市立葵中学校に入学した森山の三男は「丸刈りにするのはいやだ」と主張。髪を伸ばしたまま登校した。同校では丸刈りは1986年度に校則から削られたが、新入生のパンフレットには依然として「男子は丸刈りとする」と記載されていた。三男は担任教師に「髪を切ってこい」と何度も命じられるも、これを拒否した。森山は市民2,905人の署名を集め、同年6月5日、「頭髪は身体の一部であり、強制的に規正するのは憲法で保障された人格権の侵害」として岡崎市議会に規制撤廃を求める陳情書を提出した。6月16日、市議会教育福祉委員会で陳情書の審議が行われるが、市教育委員会は「熊本丸刈り訴訟」における熊本地裁の判決を引き合いに「頭髪規正は憲法違反ではないと解釈している」と答弁し議論は平行線をたどった。7月、森山は名古屋弁護士会(現・愛知県弁護士会)に人権侵犯救済の申し立てを行った。 1988年(昭和63年)4月25日、文部省初等中等教育局長は都道府県教育委員会中等教育担当課長会議において、校則の見直しを教育委員会に対し指示した。校則を最小限のルールにとどめること、児童生徒の自主性尊重などが促された。同年5月30日には、愛知県教育委員会が県の地方事務所と市教委の生活指導主事らを集めて「校則見直し」の指導を通知。180度の方針転換が打ち出された。10月21日、同弁護士会は葵中学校に対し、頭髪規制を廃止するよう勧告した。 こうした運動とともに市民の会は、岡崎市の中学校の丸刈り強制反対を訴え続け、影山は1991年(平成3年)3月、同市で「さよなら管理教育」全国集会を開いた。同年9月、岡崎市立南中学校が他校に先駆けて男子の頭髪の自由化を実施。パターナリズム的な暴力に根差した管理主義教育は90年代から徐々に影を潜めていった。
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