第8、第9、第10の哨戒 1944年2月 - 9月
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「ガトー (潜水艦)」の記事における「第8、第9、第10の哨戒 1944年2月 - 9月」の解説
2月2日、ガトーは8回目の哨戒でビスマルク諸島、ニューギニア島、トラック諸島方面に向かった。2月5日、ラバウルへの攻撃に参加し撃墜された、フレッド・ハーグシャイマー(英語版)などP-38の搭乗員12名を収容する特別任務を遂行。2月15日には北緯04度00分 東経150度10分 / 北緯4.000度 東経150.167度 / 4.000; 150.167の地点で特設監視艇第三大洋丸(日本真珠、36トン)を浮上砲戦で撃沈。夕刻には爆撃を受けるが、被害はなかった。2月17日のトラック島空襲で救助配備任務についた後、2月22日には北緯00度04分 東経130度44分 / 北緯0.067度 東経130.733度 / 0.067; 130.733の地点で5,000トン級輸送船に対して魚雷を発射するも命中せず、2月26日夜から2月27日にかけては、南緯00度55分 東経139度02分 / 南緯0.917度 東経139.033度 / -0.917; 139.033の地点で4隻の輸送船による輸送船団を発見し、陸軍輸送船第三大源丸(名村汽船、5,255トン)を撃沈。3月9日には南緯00度20分 東経135度23分 / 南緯0.333度 東経135.383度 / -0.333; 135.383の地点で100トン級漁船を砲撃で撃沈し、3月12日には南緯00度20分 東経132度08分 / 南緯0.333度 東経132.133度 / -0.333; 132.133の地点で陸軍輸送船第三沖ノ山丸(大図汽船、871トン)を砲撃により撃沈した。ハルマヘラ島方面まで哨戒した後、3月28日にミッドウェー島に寄港。4月1日、ガトーは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がリチャード・M・ファーレル少佐(アナポリス1935年組)に代わった。 4月30日、ガトーは9回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。ミッドウェー島まで太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将を便乗させたのち、5月22日から23日にかけてはウォレアイ環礁の写真偵察を行った。6月11日から6月18日までの間は、サイパンの戦いの援護をしていた第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の搭乗員救助任務に従事した。6月22日、ガトーは48日間の行動を終えてマジュロに帰投した。 7月15日、ガトーは10回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。この哨戒でも、第58任務部隊の小笠原空襲の支援で救助任務に従事し、ガトーは父島近海でパイロット2名を救助した。その一方、7月26日朝には北緯27度35分 東経141度45分 / 北緯27.583度 東経141.750度 / 27.583; 141.750の地点で海防艦五百島と八十島、隠岐が護衛する輸送船団を攻撃するが成功せず、ガトーは五百島と隠岐の爆雷攻撃で追い払われた。9月2日、ガトーは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されて2度目のオーバーホールに入った。ガトーは1945年に入ってから戦列に帰り、サイパン島に進出した。
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