第3次ポーランド侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:07 UTC 版)
「モンゴルのポーランド侵攻」の記事における「第3次ポーランド侵攻」の解説
モンゴルは、1286年と1287年にも、ノガイによる小規模な第三次ポーランド侵攻を行った。1286年、トゥラ・ブカはロシアの諸公数人とともにポーランドへと侵入し、幾つかの都市を攻略した。侵入軍は2万人のポーランド人捕虜をハン国に拉致していった。しかし1287年のトゥラ・ブカとノガイが指揮した侵攻は失敗に終わった。ルブリン、マゾフシェ、サンドミェシュ(英語版)とシェラツ(英語版)は略奪できたものの、モンゴル軍はクラクフで敗北した。ただし、クラクフは結局は略奪を受けた。この際のモンゴル軍は1トゥメンもおらず、これはジョチ・ウルスが1284年から始まったイル・ハン国との紛争に軍隊を動員していたためだった。モンゴル軍はポーランド総力軍に太刀うちできる規模ではなく、包囲を破るための技術者も城壁を突破するための装備も持ち合わせていなかった。彼らは隊商行列を襲い、いくつかの小都市を焼き払ったが、結集したポーランド軍に追われた。レーヴ・ダヌィーロヴィチは、ハンガリー王国のザカルパッチャ地方を奪い、ポーランド王国のルブリン州を占領すると、チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結び、反モンゴル政策を鮮明にした。 その後も、ポーランド王国(およびポーランド・リトアニア共和国)は、ジョチ・ウルスの後継国家であるクリミア・タタールと国境をめぐる争いを続けた。 一方、この侵攻の後にドイツ人の東方植民が本格化していく。ポーランドの分裂と戦乱、幾度ものモンゴル侵攻や住民の拉致もあり、ポーランド西部の公国群は13世紀には急速に衰退した。荒廃したシロンスク地方の復興に際しては、ドイツ人が西方から招かれた。人口圧力と領主からの弾圧に悩むドイツ農民は11世紀から12世紀にかけてポーランド諸侯の勧誘を受けて東方へ入植していたが、13世紀のモンゴル侵攻後はこれが顕著となっている。東方植民の結果、シロンスク地方の上流社会はポーランド人のシロンスク・ピャスト家の人々が支配した。シロンスクのピャスト諸侯はポーランド語などポーランドの文化はかなり後の時代まで保持したものの、その一方で神聖ローマ帝国との政治的な結びつきを深めていき、さらに商工民や農民からなる民衆社会はおもに都市を中心として急速にドイツ化(代が下るごとに言語や文化がドイツ的になっていくこと)していった。 この結果、シレジア地方はポーランドのほかの各地方とは異なる独特の社会・外交構造を形成していく。シロンスク・ピャスト家はドイツ社会をはじめとする西欧社会を利用することでポーランド王国における政治的発言力を強めようとし、この政策を用いてシロンスク・ピャスト家の主導するポーランドの再統一を実現しようとしていった。1410年のグルンヴァルトの戦いでは、シロンスク・ピャスト諸侯の多くはポーランドの伝統的な継承王家であるピャスト家とは血縁のないヤギェウォ家のヴワディスワフ2世を担ぐポーランド・リトアニア連合の形(実際はヴワディスワフ2世でなくクラクフ公国すなわちマウォポルスカ地方の貴族たちや、マゾフシェ、サンドムィル(英語版)、シロンスク、ヴィエルコポルスカの各地方の諸侯がポーランド政治の実権を握っていた)に反対し、シロンスク・ピャスト家による王位奪還をめざしてドイツ騎士団方に援軍を送っている。 一方、モンゴルのポーランド侵攻は戦術面でもポーランドに多大な影響を与えた。ポーランドは軽騎兵の利点を生かすモンゴル人の戦い方を理解するとそれを採りいれ、また対策法を編み出していった。ポーランドによる戦術の改良は、早くも13世紀終盤にはモンゴル人の撃退にいくつか効果を発揮しはじめ、モンゴルによるポーランド侵攻の試みは成功しなくなった。また、15世紀に入るとモンゴル系のリプカ・タタール人たちの多くは社会的に寛容なことで知られるポーランドを選択し、軽騎兵部隊としてポーランド軍で活躍することになる。騎兵の機動力を重視したポーランドの戦術は、後の宿敵オスマン・トルコとの長き戦いにおいて最大の効果を発揮した。 詳細は「回回砲」および「元寇#てつはう」を参照 フス戦争(1419年 - 1434年)では、ボヘミアとポーランドを中心とするフス派信者がヨーロッパ史最初の火器といわれる「ハンドキャノン(ポーランド語版、ドイツ語版、英語版)」を使用した。1453年のコンスタンティノープルの陥落では、ハンガリー人のウルバン (Orban) が開発した「ウルバン砲」でオスマン帝国軍が砲撃した。ボヘミア、ポーランド、ハンガリーは、いずれもモンゴルの侵攻を受けた地域で、ヨーロッパにおける火器の発達史において初期の中心地となった。 アジアへは、ポルトガル製大砲が伝来した。日本へは、1576年にキリシタン大名として知られる大友宗麟のもとにフランキ砲が伝来したのが最初の記録である。中国へ逆輸入された大砲は、1626年の寧遠の戦いに袁崇煥が使用した紅夷大砲(中国語版、英語版)の記録がある。
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