第2回競走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 02:05 UTC 版)
第2回の競走では、エディンバラよりさらに北にあるスコットランドの都市、アバディーンまでの所要時間を競った。東海岸線の会社は、エディンバラ以北を運行するノース・ブリティッシュ鉄道 (North British Railway) が加わる3社となったのに対して、西海岸線の会社は変わらず2社であった。西海岸線の路線はグラスゴーを経由してスコットランドを斜めに横断しアバディーンに至っていたのに対して、東海岸線の路線はエディンバラを経由し、フォース湾とテイ湾の2つの大きな湾を迂回してアバディーンへ至っていた。この迂回のために、アバディーンまではエディンバラまでと異なり、西海岸線の方が距離が短かった。ところが、1887年にテイ橋が、1890年にフォース鉄道橋が相次いで開通すると、西海岸線の540 マイル(約868.9 km)に対して東海岸線は523.5 マイル(約842.3 km)と距離が逆転することになった。 双方とも、ロンドンを20時に出発して翌朝にアバディーンに到着する夜行急行を運転していた。当初はどちらも12時間以上を要して翌朝8時過ぎに到着する列車であったが、この列車が競走の舞台となった。橋が開通した直後からじわじわと到着時刻は繰り上がっていき、1895年についに対立が火を噴くことになった。1895年7月1日から、西海岸線の列車はアバディーン到着を7時40分着とした。これに対抗して東海岸線の列車も7時20分着とした。7月16日になると、西海岸線は7時着に繰り上げ、さらに実際には6時47分に到着した。17日には6時21分到着と、ダイヤ上の到着時刻よりも早着していた。東海岸線もこれに対抗して7月22日には6時45分到着にダイヤを書き換え、さらに7月29日には6時25分着としたが、この日の西海岸線の到着時刻は6時5分でまだ大きく負けていた。30日にはついに西海岸線は5時59分着となり、アバディーンまでの所要時間が歴史上初めて10時間を切ることになった。 実は、東海岸側のノース・ブリティッシュ鉄道は、アバディーンまでの線路を完全には保有しておらず、その手前38 マイル(約61.1 km)の位置にあるキンナバー・ジャンクション (Kinnaber Junction) からライバルのカレドニアン鉄道の線路へ乗り入れなければならないという弱みを抱えていた。この合流点にある信号扱所に勤務している信号扱手は当然カレドニアン鉄道の職員であり、双方の列車がほぼ同時に接近してくると、東海岸線側の列車に停止信号を出して、西海岸線の列車に優先的に通行させている状況であった。早朝のキンナバー・ジャンクションでは、どちらの列車が先に接近してくるか、毎朝火花を散らしていた。 8月に入ると多客期のため一旦競走は収束したが、8月後半になって再開された。8月19日、東海岸線はアバディーン着5時40分のダイヤになり、実際には5時31分に到着したが、西海岸線は5時15分着と圧勝した。この段階になると、もはや乗客へのサービスは全く無視されるようになった。本来、夜行列車はとにかく速く走ればよいというものではなく、翌朝の適当な時間帯に目的地に到着することが重要なのであるが、そういった乗客の都合は全く無視されて、どんどんダイヤ上の到着時刻は繰り上がっていった。また、競走のために列車をできるだけ軽くすることが要求され、連結両数は減らされていって最終的にわずか客車2両になってしまった。さらに、本来鉄道では時刻表で定められた時刻より早く出発することは、乗客の乗り遅れを招くため回避されるべきものであるが、この時点ではもはやその原則は無視されてしまい、とにかく速く走れるだけ走れと会社上層部が機関士に命じる始末であった。西海岸線では、これによって乗り遅れた乗客を救済するために、第2列車を運行するほどであった。 8月21日、ついに東海岸線は4時40分着を実現し、15分差で西側に勝利した。この時は機関車交換5回を合計13分30秒で処理し、平均101.8 km/hで走破した。翌日、東海岸線は競走の中止を宣言し、ダイヤどおりに走らせることを決めた。しかし西海岸線は負けたまま引き下がるわけにはいかず、翌8月23日、最後の挑戦を試み、アバディーン着4時32分を達成した。この時の3回の機関車交換は合計8分30秒で処理し、平均107.8 km/hで走っていた。ロンドンとクルーの間253キロメートルをノンストップで走ったが、これを実現するために、途中の区間の線路に長さ数キロメートルの貯水槽を作り、運転中の機関車からホースを下ろして水をくみ上げることで給水したという。ここでついに手が打たれ、両者は協定を結んで、東が10時間25分、西が10時間30分の所要時間を守ることになり、スピードダウンが実施された。
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