第2コンスタンティノポリス公会議とは? わかりやすく解説

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第2コンスタンティノポリス公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/11 07:19 UTC 版)

第2コンスタンティノポリス公会議(だい2コンスタンティノポリスこうかいぎ)は、553年東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のトルコイスタンブール)で行われたキリスト教公会議正教会日本ハリストス正教会では、第五全地公会という。ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の政治的思惑によって開催され、「三章問題」(en)を討議して、これを排斥した。






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第2コンスタンティノポリス公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)

古代末期のキリスト教」の記事における「第2コンスタンティノポリス公会議」の解説

シリアエジプトに広まる単性論カルケドン公会議(451年)で異端とされていたが、皇帝ゼノンアナスタシウス1世単性論容認していた。しかし、ユスティニアヌス1世553年の第2コンスタンティノポリス公会議において、カルケドン教義(451年)を確認して単性論異端とし、ニカイア・コンスタンティノポリス信条正統とした。ユスティニアヌス1世543年三章勅令および第2コンスタンティノポリス公会議において、モプスエスティアのテオドロス著作キュロスのテオドレトスによるアレクサンドリアのキュリロス対す反駁(単性論反駁)、エデッサのイヴァスによるテオドロス賞賛の手紙の三章書をネストリオス派元凶となった廉で異端とし、三章書論争にも終止符つけられた。西方教会単性論正統とするためにローマ教皇ウィギリウス派遣したが、ウィギリウス皇帝からの説得三章書への批判はじめたため、三章書を支持する西方教会教皇破門しミラノ教会アクイレイア教会ローマ教会から離反したアクイレイア教会アクイレイア総大司教パウリヌス1世によって独立した単性論その後生き続けて7世紀には単意論起こったが、681年第3コンスタンティノポリス公会議異端とされた。

※この「第2コンスタンティノポリス公会議」の解説は、「古代末期のキリスト教」の解説の一部です。
「第2コンスタンティノポリス公会議」を含む「古代末期のキリスト教」の記事については、「古代末期のキリスト教」の概要を参照ください。

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