立案から具体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 05:52 UTC 版)
そこで1938年(昭和13年)12月2日に当時の国有鉄道を運営していた鉄道省内部に「鉄道幹線調査分科会」が設立され、両幹線の輸送力強化に関する調査研究が開始された。さらに翌1939年(昭和14年)7月12日には「鉄道幹線調査会」が勅令をもって設立され、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、11月に結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。鉄道省の用語では、広軌による幹線として「広軌幹線」という言葉でこの計画を呼んでいたが、新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として「弾丸列車」という語が使われた。戦後の新幹線計画への影響は大きいが直接の関係は無いものの、新しい幹線という意味で「新幹線」という語の使用も当時の公式資料中に見られる。 また、関係者には初の本格国産蒸気機関車である8620形や9600形を開発した関西鉄道出身の鉄道技術者島安次郎や、その息子で戦後東海道新幹線計画を推し進めることになった島秀雄もいた。島安次郎は、かつて国鉄の標準軌化を目論んで計画を立てていたが、立憲政友会の原敬が横槍を入れて実現せぬまま終わったという経緯があり、独自に標準軌新線を敷くというこの案に乗ったのである。 当初は他の路線と直通できることから狭軌(1067mm)新線を敷く案が有力であったが、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が標準軌(1435mm)を採用していたので、それとの貨客直通を図れる方が軍事輸送の面などからしても有利なこと、広軌を使用すれば高速運転ができるなどの理由で計画変更となった。
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