移民と労働力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 18:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「移民と労働力」の解説
新しく工場での職が生まれたことで、移民がアメリカ合衆国に殺到し、1840年代と1850年代は第一次の大量移民の波が起こった。この時代は古い型の移民の時代とも呼ばれ、420万人の移民がアメリカ合衆国に到着して、総人口は2,000万人にもなった。歴史家達はこの時代の移民を「プッシュ・プル」移民と呼ぶことが多い。アメリカ合衆国に「プッシュ」された移民は生存も危ぶまれるような貧しい状態の故に移民してきており、一方「プル」された移民は大きな経済成功機会を見出すために安定した環境から惹き付けられていた。「プッシュ」された移民の代表が、母国での飢饉から逃れてきたアイルランド人だった。彼等はボストンやニューヨーク市周辺の海岸都市に入り、その貧しさとローマ・カトリックの信仰故に当初はあまり歓迎されなかった。集団となって不潔な地区に住み、低賃金で肉体労働に就いた。カトリック教会はヨーロッパの貴族制の象徴として多くのアメリカ人に嫌悪されていた。一方ドイツ人移民は母国で差し迫っている経済破綻を避けるためにアメリカに「プル」されていた。アイルランド人とは異なり、その動産を売り払って来ている者が多かったので、金を持ってアメリカに来ていた。ドイツ人移民にはプロテスタントもカトリック教徒もいたが、カトリック教徒であってもアイルランド人のような差別は受けなかった。ドイツ人は海岸地域よりも中西部に入る者が多かった。オハイオ州シンシナティやミズーリ州セントルイスのような都市でドイツ人人口が拡大した。アイルランド人移民とは異なり、ドイツ人は教養がある中流階級で、経済的理由よりも政治的理由でアメリカに移って来た者が多かった。ニューヨーク市のような大都市では、移民達が「ゲットー」と呼ばれる民族居留地を形成し、貧困と犯罪が多く見られた。これら移民の集まった地区の中でも最も悪名高かったのがニューヨーク市マンハッタンのファイブポインツだった。マサチューセッツ州ローウェルのような場所ではより高い賃金、より良い労働条件を求めて労働者が扇動するようになり、工場所有者は女性労働者に代えて安い賃金で働き、工場の条件について煩く言わない移民の方を雇うようになった。
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