禅宗への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:53 UTC 版)
鎌倉時代、禅に傾倒した北条時頼(鎌倉幕府執権)は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。『天台記』で、禅宗への転換は時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。それによれば、旅の僧として松島に来た時頼は、祭礼を見物して感動し、大声で祭を褒めた。それが祭を乱したとして、多数の僧徒が時頼を殺そうとした。幾人かの僧のとりなしで時頼は事無きをえて逃れた。時頼は岩窟で修行中の法身に出会い、天台僧を滅ぼして禅宗を広めるという密談を交わした。その後、千人の兵力を差し向けて天台宗徒を追い払い、法身に寺を委ねた。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、死に至らしめたという。 以上『天台記』が記すのは、この紛争についての天台宗側の伝えとされる。禅宗側が伝える時頼は、酒肉をとり色に惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けたという。この伝えは、江戸時代の享保元年(1716年)に瑞巌寺103世夢庵が記した『松島諸勝記』にある。 細部はどうあれ、天台宗から禅宗への転換という骨子は諸学者に承認されているが、廻回伝説は後世のものであろう。時頼の外護は後述の「当寺雑掌景凱言上状」にも書かれているが、それについても留保する学者がいる。 いずれの伝でも天台宗徒は立ち退かされたことになっているが、その後も松島で活動を続けたらしく、南北朝時代に寺の支配をめぐって禅宗徒と争った。訴訟に際して禅宗の僧景凱が観応元年(1350年)に書き上げた文書が「当寺雑掌景凱言上状」で、北条時頼の外護を得て開山の法身以来15世にわたって禅宗であったことを主張して天台宗に対抗した。さらに江戸時代初めまで活動を続けたらしき事が記録に残っている。しかし天台派の存在はこうした禅宗側の反応によって知られるのみで、具体的な活動内容は不明である。
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