皿鉢料理の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:44 UTC 版)
神事の際の儀式食が発展した皿鉢料理は、日常に食べるものではなく行事食であり「晴れ食」であった。旧家の日記や目録には江戸時代の行事食の献立として皿鉢と記されたものが散見できる。当時は正式な儀式食である本膳料理の前後に供されていたようで、宴を彩るため、あるいは格式張らない宴席のために用いられたと考えられている。 ただ、江戸時代は「剛健質素」を藩是とした土佐藩の藩政下にあり、延宝2年(1674年)、延享5年(1748年)、明和5年(1768年)、安政4年(1857年)には、売買と使用を禁止する藩令も出されており、皿鉢は贅沢品と見なされ庶民には無用の物とされていた。当時の記録にある皿鉢料理は、武家をはじめ豪商や豪農など一部の階級の者の宴席料理であったと言う指摘もある。 明治時代になると皿鉢の売買も自由になり、封建的な身分制度の廃止も伴って皿鉢料理は庶民にも浸透し、大きく発展した。現代の皿鉢料理に見られるような、何種類もの食材を盛り合わせた「組み物」や、盛り数を「七、五、三」の奇数にするといった形式は、この時代に始まったと言われている。また、明治中期頃には皿鉢料理の仕出し屋の草分けとも言える店舗が構えられた。明治から大正にかけての仕出し店は、仕入れた魚を持って得意先を回り、家々で皿鉢料理を作るといったものだったが、大正時代後期からは現在のような出前を主とする仕出し店が増えていった。昭和30年代になると皿鉢料理の専門仕出し店が高知県下全域に広がり、食生活の洋食化もあって今日では伝統的な郷土料理とやや趣を異にする、華やかな宴席料理としての皿鉢料理が主となっている。 明治期以降から昭和にかけて、皿鉢料理は土佐の郷土料理として庶民の中に深く定着していった。同じ行事食ながら形式を重んじる本膳料理ではなく、皿鉢料理が受け継がれてきた理由として、共に料理を作る事で互いへの慰労を示し、一つの皿の料理を分け合って食べる事により連帯意識や仲間意識が養われるなど、地域や村落が共同生活を営む上でも極めて有用な「晴れ食」であった事などが挙げられている。
※この「皿鉢料理の歴史」の解説は、「皿鉢料理」の解説の一部です。
「皿鉢料理の歴史」を含む「皿鉢料理」の記事については、「皿鉢料理」の概要を参照ください。
- 皿鉢料理の歴史のページへのリンク