皇族軍人の位置づけ
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「近代日本の官制」および「参謀本部 (日本)」も参照 大日本帝国憲法下においては、天皇は「大日本帝国陸海軍の大元帥」として陸海軍を統括する立場にあった(大日本帝国憲法第12条)。 皇族軍人の初期、1877年(明治10年)以前においては、形式上、皇族軍人が官軍側の最高権威に就任している。戊辰戦争では有栖川宮熾仁親王が東征大総督、仁和寺宮嘉彰親王(当時)が征討大将軍(北越戦争中は会津征討越後口総督)それぞれ任ぜられており、士族反乱(佐賀の乱、西南戦争)でも再び両者が総督に任ぜられている。総督の権限は絶大で、天皇から黜陟・賞罰の大権を全て委任されていた。ただし、総督は武官であることを理由に選出されたものではなく、皇族男子が血統的権威によって大権を掌握していた。これは、天皇の大権を武官が掌握する体制が未だ整っていなかったことを意味する。 1885年(明治18年)12月22日に太政官が廃され、内閣制度が創始されたことに伴い、有栖川宮熾仁親王が左大臣を辞したことで皇族が行政職を離れ、宮中と府中(行政府)の別が確立した。これとともに、皇族男子の武官としての位置づけも確立された。 1878年(明治11年)12月、 参謀本部が陸軍省から独立し、軍政と軍令が分離する。さらに1886年(明治19年)3月18日から1888年(明治21年)5月12日までの約2年間、参謀本部は陸海軍の「統合的軍令機関」となり、その陸軍参謀本部長には熾仁親王が就任した。森松俊夫によれば、兵部省廃止による陸軍省・海軍省の分離以降、両者の不和があり、これを陸海軍の枠や階級を超越した「皇族」の存在によって「統合の実を得よう」とする試みであった。さらに1888年(明治21年)5月12日の「参軍官制」(勅令第24号)により、参軍は次のように定められ、平時・戦時を問わず強大な権限が与えられることが謳われた。 ※引用註:()内は現代かな遣い・新字体に改め、句読点を補ったもの 明治二十一年五月十二日 勅令第二十四號 参軍官制 第一條 参軍ハ帝國全軍ノ参謀長ニシテ皇族大中將ヲ以テ之ヲ任シ直ニ皇帝陛下ニ隷ス (参軍は帝国全軍の参謀長にして、皇族大中将を以て之を任じ、直に皇帝陛下に隷す) 第三條 凡ソ戦略上事ノ軍令ニ關スルモノハ専ヲ参軍ノ管知スル所ニシテ之ガ参畫ヲナシ親裁ノ後平時ニ在リテハ直ニ之ヲ陸海軍大臣ニ下タシ戰時ニ在リテハ参軍之ヲ師團長艦隊司令長官鎮守府司令長官若クハ特命司令官ニ傳宣シテ之ヲ施行セシム (およそ戦略上、事の軍令に関するものは、専を参軍の管知する所にして、これが参画をなし親裁の後、平時に在りては直にこれを陸海軍大臣に下し、戦時に在りては参軍これを師団長・艦隊司令長官・鎮守府司令長官若しくは特命司令官に伝宣して、これを施行せしむ) 第五條 参軍ノ下ニ陸軍参謀本部海軍参謀本部ヲ置キ陸海軍將官各一名ヲ以テ其長トシ参軍ヲ補翼シ部事ヲ管掌セシム (参軍の下に陸軍参謀本部・海軍参謀本部を置き、陸海軍将官各一名を以てその長とし、参軍を補翼し、部事を管掌せしむ) しかし、翌1889年(明治22年)3月7日に参軍官制は一年も経たずに廃され、陸海軍の統合的機関も消滅した。この際の新たな参謀本部条例(明治41年軍令陸第19号)では、参謀長への皇族の就任は明記されず、皇族の陸・海の調整機能としての役割も終焉を迎えた。 皇族の昇任には特権的な処置がなされ、尊厳を損なわないような配慮がなされた。いつから明確に行われたかは不明ながら、1890年(明治23年)に有栖川宮熾仁親王が海軍拡張と共に皇族の特権的進級の必要性を訴え出ている。すなわち大日本帝国陸海軍が「皇軍=天皇の軍隊」であることを示す社会的権威としての役割が明確されることとなった。
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