略奪の応酬(3月から6月)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「略奪の応酬(3月から6月)」の解説
3月には初期の調停が試みられていたが、決裂していた(後述)。この時スイスにとっての大きな問題は統一的な指揮権の不足だった。州の部隊は自分の指導者からのみ命令を受けたため、不服従への苦情は常態化していた。そのためスイス議会は1499年3月11日に以下の決議を採択した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「同盟が戦闘状態にあるときは、各々がどの州の人間であるかにかかわらず、他軍の指揮官の支持にも従わねばならないということを、すべての州は自軍の兵に強く戒めておかねばならない。」 — 一方シュヴァーベン同盟は新兵の募集を完了し、3月22日にドルナッハを襲撃したが、同日の晩、ブルーダーホルツの戦いで数値的に劣ったスイス軍に敗北した。 4月初旬、双方はライン川沿いの互いの領土を襲撃した。スイスはシャフハウゼンの西部、クレットガウにあるハーラウとノインキルヒの村を征服した。一方4月11日にはシュヴァーベン同盟側も大規模攻撃を行い、シュヴァーダーローの戦いに発展した。シュヴァーベン軍はコンスタンツ市の真南、ボーデン湖の南岸にあるいくつかの村を占領、略奪したが、スイスの兵士たちもシュヴァーダーローの数マイル南にメインキャンプを設けていたので交戦状態に入った。しかしこの戦いはシュヴァーベン軍の遠征は敗北に終わった。シュヴァーベン人は1,000人以上の兵士を失い、スイス軍に自走砲を含む重装武器を奪われてしまったのであった。 再びスイスはクレットガウとヘーガウを襲撃し、ティエンゲンやシュテューリンゲンなどの要塞化された小さなシュヴァーベン都市を略奪した後、再撤退した。東部戦線では新たなハプスブルクの攻撃がスイスの逆襲を煽り、4月20日フェルトキルヒの近くで起こったフラスタンツの戦いでもスイスは勝ち続けた。このようにこの戦争自体は多数の小規模な襲撃と大きな衝突の合間の両者による略奪的遠征によって構成されている。 ハプスブルク軍とシュヴァーベン軍の連敗を受け、これまでネーデルラントをめぐる問題で手一杯だった皇帝マクシミリアン1世もコンスタンツに親征し、作戦の指揮を引き継いだ。彼は紛争を「帝国戦争」と銘打って、ドイツ諸侯の作戦に対する幅広い支持を得るためにスイス同盟を帝国アハト刑に処す宣言を出した。しかしこの策略は不発に終わったが、マクシミリアン1世はあえてコンスタンツの近くで攻撃できるほど十分な軍隊を持っていなかったため、次の攻撃をヴァル・ミュステアで再び行うことに決定した。しかし5月初旬に西部で放棄された攻撃計画は結果的に大量のスイス軍を引き寄せ、スンドゴーの襲撃に発展した。次いで5月21日にスイスはヘーガウで第三の襲撃を行ったが、シュトッカッハ市がシュヴァーベンの救援部隊が十分近くに来れるほど長く包囲戦に耐えたので、一週間後には作戦を放棄した。 5月22日にはグラウビュンデンでカルヴェンの戦いが起こった。三同盟はマクシミリアン1世が援軍とともに到着する前に、グロレンツァに要塞を築いていたハプスブルク軍を攻撃した。要塞を陥落させるとハプスブルク軍を追放し、3日後(5月25日)に退却するまでフィンシュガウを破壊し尽くした。マクシミリアン1世とその援軍は5月29日に1週間遅れて到着した。激怒した皇帝は6月に報復としてエンガディン渓谷を略奪したが、半月後スイス同盟からの援軍が到着するとすぐに撤退した。この敗北によってハプスブルク家の本来の戦争の目的の一つであった、グラウビュンデン地方の制圧、特にエンガディンやヴァル・ミュシュタイアーの支配は絶望的となり、戦争の焦点はスイス同盟の国境北部へと移ることとなった。皇帝はヴァル・ミュシュタイアーでの戦いに勝つためにボーデン湖に退却して態勢を立て直すことを望んでいたが、シュヴァーベン同盟軍側はもはやグラウビュンデンでの戦闘に興味を失い、北部での戦闘に集中すべきだと考えていたので、出兵を拒否したからである。こうして方向性の違いによって軍事行動は停滞し、コンスタンツに集合した部隊も行動は起こさなかった。そして戦線全体で見ても、7月までは特筆すべきようなことは何も起こらなかった。
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