片瀬西浜海水浴場、鵠沼海岸海水浴場並立時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 14:48 UTC 版)
「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」の記事における「片瀬西浜海水浴場、鵠沼海岸海水浴場並立時代」の解説
1947年(昭和22年)4月1日、鎌倉郡片瀬町は藤沢市へ編入合併される。このことにより、藤沢市は江の島を擁する観光都市に発展し、片瀬西浜と鵠沼を一体化して開発する基盤ができた。それまで、片瀬の海水浴場は東浜に限られ、西浜には海水浴場はなく、単なる地曳き網漁場だった。後背地の境川右岸にはほとんど人家も宿泊施設もなかったからである。1948年(昭和23年)夏、戦争中休止していた藤沢市営プール(後の鵠沼プールガーデン)が再開、小中学校の水泳指導でも盛んに用いられた。一方、片瀬西浜が本格的に海水浴場として整備され始めたのはこの年からとされる。組合が結成されたのは1950年(昭和25年)である。 1951年(昭和26年)、朝鮮戦争が山場を越すと、神奈川県北部の米軍施設から休日になると米兵たちが浜辺でバーベキューやサーフィンを楽しむためにジープで乗り付けるようになり、地元では「GIビーチ」と呼ぶようになった。彼らがこの海岸を「マイアミ」と呼んだことから、後に藤沢市が「東洋のマイアミ」として売り出すきっかけになったと伝えられる。また、彼らをまねて手製のサーフボードに乗る地元少年も現れた。また、同年5月1日、江ノ島電鉄により、西浜に江ノ島自動車駐車場(現江ノ電駐車センター)が営業を開始し、観光地開発のきっかけを与えた。片瀬西浜にも「海の家」が建ち並ぶようになり、交通アクセスの便がよいことと、観光地江の島の入口に当たることから、たちまち人気の海水浴場に発展した。 戦後、鵠沼海岸海水浴場は市営の手を離れ、地元鵠沼海岸の商店街「鵠栄会」の手にゆだねられていたが、1953年(昭和28年)8月28日の鵠沼海岸花火大会を最後に「鵠栄会」の手から離れることになった。ここに、引地川右岸にあった鵠沼海岸海水浴場は一旦消滅するのである。1954年(昭和29年)5月21日、神奈川県は「湘南海岸公園都市計画事業」を決定、「特許方式」という民間事業を導入した公立公園建設に着手した。手始めに同年7月1日、日活資本の「江の島水族館」が、日本における近代的私設水族館の第1号として誕生した。(以降の経緯は湘南海岸公園を参照)。
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