まんもう‐かいたくだん【満×蒙開拓団】
満蒙開拓移民
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満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年(昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に日本各地から満洲・内蒙に開拓民として、27万人が移住した。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる[1][2]。
- ^ 蘭信三「満蒙開拓民」『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-01469-4、494~495頁。
- ^ “満蒙開拓の歴史”. 信州デジくら. 2021年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 蘭信三 2012, p. 495.
- ^ 浅田喬二 1993, p. 88.
- ^ a b 蘭信三 2012, p. 496.
- ^ a b c d e 朝日新聞 夕刊 (東京: 朝日新聞社): p. 1. (2014年8月19日)
- ^ 浅田喬二 1993, p. 91.
- ^ 2014年8月25日中日新聞朝刊5面
- ^ 井出(2009年)83ページ
- ^ a b c d 井出(2009年)84ページ
- ^ a b 加藤(2009年)183ページ
- ^ 三留理男『満州棄民』東京書籍(株)、1988年8月5日、80頁。
- ^ a b c 蘭信三 2012, p. 497.
- ^ 蘭信三 1994, p. 59.
- ^ 土井洋一「植物学者・西村真琴の思想と実践(その2)思想と形成とその社会的基盤を中心に」『社会問題研究』第46巻第2号、大阪府立大学社会福祉学部、1997年3月、1-24頁、doi:10.24729/00003405、ISSN 09124640、NAID 120006720483。
- ^ 図録▽満州開拓団及び満蒙開拓青少年義勇軍送出者数(都道府県)
- ^ 日満統制経済論 P.45~48, 63~68 小日山直登 1932年
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13021585100、満蒙関係資料綴(防衛省防衛研究所)」 標題:満蒙に於ける治安の快復維持/3 治安維持の方策
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13021587100、満蒙関係資料綴(防衛省防衛研究所)」 標題:満蒙開発に関する施設/第3 満蒙移民問題
- ^ a b リットン報告附屬書: 滿洲の諸問題及ボイコットに關する專門家の研究九編 P.167-170 国際連盟協会 1933年3月7日
- ^ 社会政策時報第百四十号 P.107
- ^ a b 満蒙開拓の痕跡を訪ねて 山形県にあった日輪兵舎(序章) 松山薫、東北公益文科大学総合研究論集 (8), 75-90, 2004
- ^ 「岩波講座 近代日本と植民地 第3巻植民地化と産業化」所収「満洲農業移民と農業・土地問題」浅田喬二
- ^ a b 蘭信三「満蒙開拓民」貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-01469-4、496頁。
- ^ a b 「日本人移民政策と「満洲国」政府の制度的対応――拓政司,開拓総局の設置を中心に――小都晶子
- ^ 角田房子 『甘粕大尉』 中央公論社 1975年 P222 -
- ^ "満州 難民感染都市 知られざる悲劇/祖国への脱出". NHK. 2021年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月15日閲覧。
- ^ "2022年民放連賞 テレビグランプリ受賞のことば 山形放送 『三つめの庄内〜余計者たちの夢の国〜』". 民放online. 2022年12月14日. 2022年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月21日閲覧。
満蒙開拓団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)
「満蒙開拓団」および「満蒙開拓移民」も参照 満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである。1936年(昭和11年)までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた。 1936年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、高橋是清蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置づけ、「満洲開拓移民推進計画」を決議した。同年末には、先に関東軍作成の「満洲農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」が策定された。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は加藤完治で、業務を担っていたのは満洲拓殖公社であった。
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満蒙開拓団
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「満蒙開拓団」および「満蒙開拓移民」も参照 満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである。1936年(昭和11年)までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた。 1936年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、高橋是清蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置づけ、「満州開拓移民推進計画」を決議した。同年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」が策定された。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は加藤完治で、業務を担っていたのは満州拓殖公社であった。
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