港高等学校
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港高等学校(みなとこうとうがっこう)(創立年月日順)は、日本の公立高等学校。
- 1 港高等学校とは
- 2 港高等学校の概要
港高等学校
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学制改革により1947年に新制中学校制度ができたことに伴い、過渡的に併設中学校を設置し、1947年度旧制高等女学校2・3年相当の生徒を併設中学校に移行した。 1948年には新制高等学校制度の発足に伴い、大阪府立港高等学校に改称した。旧制市岡高等女学校は新制高校移行時に「市岡」の名称を使い「大阪府立市岡高等学校」にしたかったとされるが、旧制市岡中学校と競合し、当初はどちらも市岡の名称を使用したいと譲らなかった。最終的には市岡の名称は旧制中学校側に譲り、旧制市岡高等女学校は港高等学校となった。 1948年6月には、大阪府立市岡高等学校(旧制市岡中学校)・大阪市立西華高等学校(旧制西華高等女学校)と生徒・教職員を交流して男女共学を実施した。市岡高等学校(旧制市岡中学校)との交流の対象者は併設中学校3年と高校1年の生徒となり、くじ引きで振り分けられた。 また終戦直後、新制中学校・大阪市立港第一中学校(1949年大阪市立市岡中学校)に校舎の一部を貸し出すことになった。市岡中学校は1947年-1948年、および1950年-1951年の2度にわたり校舎を借用した。 当時義務教育優先として、新制中学校の校舎確保のため市岡中学校に校舎を譲る形で廃校とすることも検討された。市岡中学校は、戦災で廃校となった旧市岡第五小学校(魁国民学校)跡に校地を確保したため、港高校の廃校は回避されている。 また1949年9月15日には、港高校を廃校し、跡地を当時校舎が腐食して使用に耐えない状態だと判断されていた大阪府立西野田工業高等学校の移転先として充てる案が、大阪府会で検討の俎上に上がった。学校関係者が反対運動を起こし、1950年3月には廃校案は撤回された。 1950年にはジェーン台風で校舎が被災した。学校関係の被害額は約600万円相当だとされている。 1973年には従来の制服制度を廃止し、標準服制度へと移行した。 1970年代から1980年代にかけては高校生の急増期にあたっていた。大阪府立高校での高校生受け入れについては、1970年代は急増分は主に新設校で受け入れていたが、1980年代になると新設校の設置を極力抑えて既存校の定員増で対応する方針へと変化した。このことを受けて、1980年には1学年10学級へと増学級となり、ピーク時の1987・1988年度には1クラス48人・14学級へと増加した。生徒増加に伴い、特別教室などを普通教室に転用する策がとられた。 1984年には、室戸台風被災後の1936年に建て直された校舎が老朽化していたことを背景に、8階建ての高層校舎に建て替える案が大阪府教育委員会から提示された。学校側からは、高層校舎が当時ほとんど例を見なかったことや、校舎建て替えはさらなる増学級を前提にしていたことから不安の声が上がったものの、最終的には周辺の民家への影響などを考慮する形で計画を一部変更した上で、校舎を建て替えることにした。校舎改築工事は1985年5月に始まり、1988年に竣工している。
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