江戸時代の庶民とお茶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:17 UTC 版)
江戸時代に入り「日常茶飯事」という慣用句に代表されるように、茶は庶民の間にも広まっていった。が、この当時の民衆の茶は文字通り茶色の日本茶で、今日のように急須で手軽に淹れられるものではなく、茶葉をヤカンの湯で煮出すことによって成分を抽出する煎じ茶であった。 中世以降の日本における茶の服用方法にはこの煎じ茶と、茶葉を臼ですりつぶした挽茶をお湯で溶いて飲む方法があった。 これらの製造方法として、湯引きし (煮製) 酸化酵素の働きを止め ( → 殺青) 、日光や火で焙り乾燥させる「黒製」と、そのまま茶葉を釜で炒る「炒製」があった。 近世以降に「揉み」の行程が入るようになって、「青製」と呼ばれる、蒸して殺青を行い、焙炉で揉み上げ葉汁を外に出し乾燥させる緑茶が誕生した。 これにより急須で出す現在の日本茶の原型が出来上がり、近世以降主流となっていった。 また青製は、葉汁や茶エキスを茶葉の外側に出して揉みあげ、出汁が出やすくする為「出し茶」とも呼ばれた。 福岡県南部の筑後地区(八女地域を含む)では江戸時代 - 大正初期まで、作られていたお茶のほとんどは日乾茶=黒製や釜炒製であった。
※この「江戸時代の庶民とお茶」の解説は、「八女茶」の解説の一部です。
「江戸時代の庶民とお茶」を含む「八女茶」の記事については、「八女茶」の概要を参照ください。
- 江戸時代の庶民とお茶のページへのリンク