江戸時代の恵林寺
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江戸時代の寛文12年(1672年)は武田信玄百回忌に際して恵林寺で法要が実施され、武田遺臣の子孫である曲淵吉貸・三枝守俊らが主導して武田家ゆかりの旗本や諸大名家の家臣・浪人らから奉加を集め信玄供養塔が造立された。この際に作成された『恵林寺奉加帳』には上野国館林藩家臣に柳沢安忠(形部左衛門)とその子息である弥太郎(吉保)の名が見られる。 柳沢吉保の主君である館林藩主・徳川綱吉は徳川将軍家を継承し、吉保は綱吉の「側用人」となる。さらに宝永元年(1704年)に吉保は甲府藩主となる。吉保は武田信玄を崇拝し、柳沢氏系図では柳沢家の祖を武田家に連なる一族として位置づけている。宝永2年(1705年)4月12日に吉保は恵林寺において信玄の百三十三回忌の法要を実施し、伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し自らが信玄の後継者であることを強調している。 また、吉保は同年に柳沢家の系譜を記した「甲斐少将松平吉保家世次第」と恵林寺へ奉納した和歌「法性院殿百三十三回忌詠歌」を作製している。「甲斐少将松平吉保家世次第」では、柳沢家が甲斐源氏の始祖である源義清・清光から一条信経・時信の甲斐一条氏、さらに時信の子・時光からはじまる青木氏を経て柳沢氏に至る系譜を強調している。 「法性院殿百三十三回忌詠歌」は吉保が信玄の百三十三回忌の法要の際に奉納した和歌を記したもので、吉保が詠んだ「百あまりみそしみとせの夢の山かひありていまとふもうれしき」の歌が記されている。これは、吉保が武田家に関わる歌枕である夢山(山梨県甲府市の愛宕山)の地に133年の歳月を経て訪問がかなったことを感激する内容であるとされる。 さらに、吉保は一蓮寺など甲斐国内の寺院に自身の肖像画を奉納しており、宝永7年(1710年)には黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招き現在の甲府市岩窪町に永慶寺を創建している。永慶寺と恵林寺には法量・像容がほぼ同一な彫像としての柳沢吉保座像を奉納している。吉保は正徳4年(1714年)に死去し永慶寺に埋葬されたが、享保9年(1724年)に柳沢氏が大和郡山藩へ転封された際に永慶寺も大和へ移転され、吉保は恵林寺内に改葬された。吉保の子・吉里も自ら手がけた武田信玄像を恵林寺へ奉納している。 恵林寺に伝わる史料として、検地帳簿である『恵林寺領検地帳』が残されている。
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