江戸時代の恵林寺とは? わかりやすく解説

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江戸時代の恵林寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 08:44 UTC 版)

恵林寺」の記事における「江戸時代の恵林寺」の解説

江戸時代寛文12年1672年)は武田信玄回忌に際して恵林寺法要実施され武田遺臣の子孫である曲淵吉貸・三枝守俊らが主導して武田家ゆかりの旗本諸大名家の家臣浪人らから奉加集め信玄供養塔造立された。この際作成された『恵林寺奉加帳』には上野国館林藩家臣柳沢安忠(形部左衛門)とその子息である弥太郎(吉保)の名が見られる柳沢吉保主君である館林藩主・徳綱吉徳川将軍家継承し、吉保は綱吉の「側用人」となる。さらに宝永元年1704年)に吉保は甲府藩主となる。吉保は武田信玄崇拝し柳沢氏系図では柳沢家の祖を武田家連なる一族として位置づけている。宝永2年1705年4月12日に吉保は恵林寺において信玄の百三十三回忌法要実施し、伝信玄佩刀太刀銘来国長奉納し自らが信玄後継者であることを強調している。 また、吉保は同年柳沢家系譜記した甲斐少将松平吉保家世次第」と恵林寺奉納した和歌法性院殿百三十三回忌詠歌」を作製している。「甲斐少将松平吉保家世次第」では、柳沢家甲斐源氏始祖である源義清清光から一条信経時信甲斐一条氏、さらに時信の子時光からはじまる青木氏経て柳沢氏に至る系譜強調している。 「法性院殿百三十三回忌詠歌」は吉保が信玄の百三十三回忌法要の際に奉納した和歌記したもので、吉保が詠んだ「百あまりみそしみとせの夢の山かひありていまとふもうれしき」の歌が記されている。これは、吉保が武田家関わる歌枕である夢山(山梨県甲府市愛宕山)の地に133年歳月経て訪問かなったことを感激する内容であるとされる。 さらに、吉保は一蓮寺など甲斐国内の寺院自身肖像画奉納しており、宝永7年1710年)には黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招き現在の甲府市岩窪町永慶寺創建している。永慶寺恵林寺には法量像容がほぼ同一な彫像としての柳沢吉保座像奉納している。吉保は正徳4年1714年)に死去し永慶寺埋葬されたが、享保9年1724年)に柳沢氏大和郡山藩転封された際に永慶寺大和移転され、吉保は恵林寺内に改葬された。吉保の子吉里も自ら手がけた武田信玄像を恵林寺奉納している。 恵林寺に伝わる史料として検地帳簿である『恵林寺検地帳』が残されている。

※この「江戸時代の恵林寺」の解説は、「恵林寺」の解説の一部です。
「江戸時代の恵林寺」を含む「恵林寺」の記事については、「恵林寺」の概要を参照ください。

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