正貨流出と昭和恐慌の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:19 UTC 版)
「昭和恐慌」の記事における「正貨流出と昭和恐慌の発生」の解説
低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した。金解禁後わずか2か月で約1億5,000万円もの正貨が流出、1930年(昭和5年)を通して2億8,800万円におよんだ。正貨流出は1931年(昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した。 日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった。こういったことから、1930年(昭和5年)3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼、農産物等の物価は急激に低下した。次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した。さらに、物価と株価の下落によって中小企業の倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった。1930年(昭和5年)中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散・減資の総額は5億8,200万円におよんでいる。労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商が夜逃げしている。当時、稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治以来の異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった。1930年(昭和5年)の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された。 1929年(昭和4年)を100としたときの1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)の経済諸指標は以下の通りである。 項目1929年昭和4年1930年昭和5年1931年昭和6年国民所得 100 81 77 卸売物価 100 83 70 米価 100 63 63 綿糸価格 100 66 56 生糸価格 100 66 45 輸出額 100 68 53 輸入額 100 70 60 なお、1930年(昭和5年)時点での日本の1人あたり国民所得 (GNI) は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった。
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