松前藩復領後とは? わかりやすく解説

松前藩復領後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:20 UTC 版)

久春内郡」の記事における「松前藩復領後」の解説

北方緊張解消され文政4年1821年)には松前藩領に復した。松前藩復領後、安政3年1856年)に松浦武四郎真縫久春内線前身にあたる道を通り轟峠を越えて久春内郡域を訪れ本斗安別線前身にあたる道でライチシカまで踏査。武四郎は郡域内三浜村小田洲、恵比寿)、久春内宿泊安政3年の武四郎幕吏として、箱館奉行所の支配組頭向山源太夫同行しした。 ○嘉永7年1854年刊行の『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に記載される弘化3年当時の状況一部下記のとおり久春内村クシュンナイ川上流・・・上川伝次郎分水嶺のチベアケ(カモイコタン)に打った東岸との境界クシュンナイ久春内)・・・アイヌの家4~5軒 ○北蝦夷餘誌(安政3年1856年状況三浜村ヲタス(小田洲)・・・宿所、 ライチシカ(来知志)・・・石清水八幡

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松前藩復領後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:15 UTC 版)

真岡郡」の記事における「松前藩復領後」の解説

文政4年1821年真岡郡域は松前藩領に復した。松前藩復領後、弘化3年安政3年1856年)に松浦武四郎訪れている。安政3年幕吏として訪れた際は箱館奉行所の支配組頭向山源太夫同行。 ○嘉永7年1854年刊行の『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に、弘化3年当時の状況一部記載されている。 広地村タナントマリ(多泊)・・・番屋止宿真岡町エンルモコマフ(真岡)・・・西の運上屋西浦漁場司る支配人番人がおり、二十余棟、弁天社アイヌの家38蘭泊村ラクマカ(楽磨)・・・番屋 トコタン(床丹)・・・ニシン番屋(六間に二十間の広さ)、弁天社アイヌの家10トウブツ(登富津)・・・明番屋北蝦夷餘誌(安政3年1856年状況一部下記記載あり。) 真岡町エンルモコマフ(真岡)・・・弁天社 幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、西トンナイ(真岡町真岡)に会所役宅見え安政4年(1857)まで会所運上屋居住する役人たちが増加したため、安政5年8月トンナイ(真岡)に1棟の役宅新設したという。 西浦樺太西岸)には道(本斗安別線前身)が通じ通行屋小休所では、ショウニ(本斗郡二村宗仁)からナヨロ(泊居郡名寄村名寄)まで、途中3カ所を入れ、5カ所に「通行屋」があったという。 幕末当時宗教施設漁場については下記のとおり。 ○西浦神社南方より順次記載広地村・・・ヒロチ(広地村)弁天社 真岡町・・・エンルンモコマフ(この地は後に西富内(とんない)、真岡町弁天社稲荷社金比羅八大竜王 蘭泊村・・・トロトマリ(幌泊)弁天社、ラクマツカ・ラクマカ(楽磨)弁天社、トウコタン(床丹)弁天社幕末から明治初の資料では、真岡西海岸中心地とし、西トンナイとしているものがあるため、以降それに従う。 ○真岡神社明治42 年創建由緒樺太に於ける神社中最も古き歴史有し其の濫觴遠く明治維新前にして、文献徴すべきものなしと雖も当時遺物たる花崗石鳥居燈籠手水鉢等により神社存立歴然たり境内にある弁天社の手洗鉢には文政2年1819年)、花崗石鳥居には嘉永元年1848年)、花崗石燈籠には慶應元年1865年)と、奉納され年代それぞれ刻まれている。この弁天社大正9 年1920年)の真岡駅開業の際、真岡神社境内移転したようである。その境内弁天社写真昭和15 年5 月撮影)が函館市図書館保管されているという。 ○泊神社明治40 年鎮座由緒遠く露領時代出漁者にして現在漁場経営者たる山田竹次郎が其漁場内に大物主大神奉祀せるを村民崇敬の念を禁じ難く明治40 年6月16 日奉祀者より譲り受け神殿現在の位置に新らしく造営して其誠を捧げたるに始まる」とあり、創建ロシア領時代と見られる(『大日本神社大鑑北海道樺太版)』)。 ○西浦漁場南方より順次記載慶応3年12月 栖原十代寧幹時代樺太漁場 広地村・・・トマリホキス(泊帆岸)、ヒロチ(広地村)、アツケブシ(アケブシ、明牛) 真岡町・・・テイ(手井)、エンルモコマフ(真岡)、アラコイ(荒貝)、ウエントマリ(宇遠泊)、チシナイホ(知志内) 蘭泊村・・・ホロトマリ(幌泊)、ホンコタン(本古丹)、ラクマカ(楽磨)、シマストマリ(スマルシトマリ、島泊)、トンナイキシ(富内岸)、トコタン(床丹)

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松前藩復領後

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留多加郡」の記事における「松前藩復領後」の解説

文政4年1821年松前藩領に復した樺太の松前藩復領後、弘化3年安政3年1856年)に松浦武四郎訪れた安政3年箱館奉行所の支配組頭向山源太夫幕吏として同行幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、亜庭湾岸に新場西能登呂岬線前身に当たる道が通じており、通行屋小休所では、「通行屋」8カ所と、その途中に「小休所」3カ所の存在確認できる。郡域内松浦武四郎宿泊したのは、弘化3年リヤトマリ(利屋泊)・ウルウ(雨龍浜)・リラ(利良)、安政3年リヤトマリ(利屋泊)・イクマイレイである。 幕末当時宗教施設漁場については下記のとおり。 ○アニワ湾岸の神社西方より順次記載能登呂村・・・リヤトマリ・利屋古丹(利屋泊)弁天社、ウリウ(雨龍浜)弁天社三郷村・・・リラ(利良)弁天社アニワ湾漁場西方より順次記載慶応3年12月 栖原十代寧幹時代樺太漁場 能登呂村・・・ナエチヤ(内砂)、リヤトマリ(利屋泊)、ウルウ(雨龍浜)、 三郷村・・・ホロナイボ(幌内保)、リラ(利良) 留多加町・・・ルータカ(留多加)

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