松前藩復領後
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北方の緊張が解消され、文政4年(1821年)には松前藩領に復した。松前藩復領後、安政3年(1856年)に松浦武四郎が真縫久春内線の前身にあたる道を通り轟峠を越えて久春内郡域を訪れ、本斗安別線の前身にあたる道でライチシカまで踏査。武四郎は郡域内の三浜村(小田洲、恵比寿)、久春内で宿泊。安政3年の武四郎は幕吏として、箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫に同行し渡樺した。 ○嘉永7年(1854年)刊行の『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に記載される、弘化3年当時の状況の一部は下記のとおり。 久春内村クシュンナイ川上流・・・上川伝次郎が分水嶺のチベアケ(カモイコタン)に打った、東岸との境界票 クシュンナイ(久春内)・・・アイヌの家4~5軒 ○北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況) 三浜村ヲタス(小田洲)・・・宿所、 ライチシカ(来知志)・・・石清水八幡
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松前藩復領後
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文政4年(1821年)真岡郡域は松前藩領に復した。松前藩復領後、弘化3年と安政3年(1856年)に松浦武四郎が訪れている。安政3年、幕吏として訪れた際は箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫に同行。 ○嘉永7年(1854年)刊行の『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』に、弘化3年当時の状況の一部が記載されている。 広地村タナントマリ(多蘭泊)・・・番屋・止宿所 真岡町エンルモコマフ(真岡)・・・西の運上屋、西浦の漁場を司る。支配人・番人がおり、蔵二十余棟、弁天社、アイヌの家38軒 蘭泊村ラクマカ(楽磨)・・・番屋 トコタン(床丹)・・・ニシン番屋(六間に二十間の広さ)、弁天社、アイヌの家10軒 トウブツ(登富津)・・・明番屋 ○北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況の一部に下記の記載あり。) 真岡町エンルモコマフ(真岡)・・・弁天社 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、西トンナイ(真岡町真岡)に会所と役宅が見え、安政4年(1857)まで会所・運上屋に居住する役人たちが増加したため、安政5年8月にトンナイ(真岡)に1棟の役宅を新設したという。 西浦(樺太西岸)には道(本斗安別線の前身)が通じ、通行屋・小休所では、ショウニ(本斗郡好二村宗仁)からナヨロ(泊居郡名寄村名寄)まで、途中3カ所を入れ、5カ所に「通行屋」があったという。 幕末当時の宗教施設や漁場については下記のとおり。 ○西浦の神社(南方より順次記載) 広地村・・・ヒロチ(広地村)弁天社 真岡町・・・エンルンモコマフ(この地は後に西富内(とんない)、真岡町)弁天社・稲荷社・金比羅・八大竜王 蘭泊村・・・トロトマリ(幌泊)弁天社、ラクマツカ・ラクマカ(楽磨)弁天社、トウコタン(床丹)弁天社 ※幕末から明治初の資料では、真岡を西海岸の中心地とし、西トンナイとしているものがあるため、以降それに従う。 ○真岡神社(明治42 年創建)由緒「樺太に於ける神社中最も古き歴史を有し其の濫觴は遠く明治維新前にして、文献に徴すべきものなしと雖も当時の遺物たる花崗石製鳥居、燈籠、手水鉢等により神社の存立は歴然たり」 境内にある弁天社の手洗鉢には文政2年(1819年)、花崗石鳥居には嘉永元年(1848年)、花崗石燈籠には慶應元年(1865年)と、奉納された年代がそれぞれ刻まれている。この弁天社は大正9 年(1920年)の真岡駅開業の際、真岡神社境内に移転したようである。その境内の弁天社の写真(昭和15 年5 月撮影)が函館市立図書館に保管されているという。 ○蘭泊神社(明治40 年鎮座)由緒「遠く露領時代の出漁者にして現在蘭泊漁場の経営者たる山田竹次郎が其漁場内に大物主乃大神を奉祀せるを村民崇敬の念を禁じ難く、明治40 年6月16 日奉祀者より譲り受け、神殿を現在の位置に新らしく造営して其誠を捧げたるに始まる」とあり、創建はロシア領時代と見られる(『大日本神社大鑑(北海道、樺太版)』)。 ○西浦漁場(南方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場 広地村・・・トマリホキス(泊帆岸)、ヒロチ(広地村)、アツケブシ(アケブシ、明牛) 真岡町・・・テイ(手井)、エンルモコマフ(真岡)、アラコイ(荒貝)、ウエントマリ(宇遠泊)、チシナイホ(知志内) 蘭泊村・・・ホロトマリ(幌泊)、ホンコタン(本古丹)、ラクマカ(楽磨)、シマストマリ(スマルシトマリ、島泊)、トンナイキシ(富内岸)、トコタン(床丹)
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松前藩復領後
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文政4年(1821年)松前藩領に復した。樺太の松前藩復領後、弘化3年と安政3年(1856年)に松浦武四郎が訪れた。安政3年は箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫に幕吏として同行。 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、亜庭湾岸に新場西能登呂岬線の前身に当たる道が通じており、通行屋・小休所では、「通行屋」8カ所と、その途中に「小休所」3カ所の存在が確認できる。郡域内で松浦武四郎が宿泊したのは、弘化3年リヤトマリ(利屋泊)・ウルウ(雨龍浜)・リラ(利良)、安政3年リヤトマリ(利屋泊)・イクマイレイである。 幕末当時の宗教施設や漁場については下記のとおり。 ○アニワ湾岸の神社(西方より順次記載) 能登呂村・・・リヤトマリ・利屋古丹(利屋泊)弁天社、ウリウ(雨龍浜)弁天社、 三郷村・・・リラ(利良)弁天社 ○アニワ湾漁場(西方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場 能登呂村・・・ナエチヤ(内砂)、リヤトマリ(利屋泊)、ウルウ(雨龍浜)、 三郷村・・・ホロナイボ(幌内保)、リラ(利良) 留多加町・・・ルータカ(留多加)
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