東廻り航路と醸造業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:04 UTC 版)
江戸時代中期になると、石高制と参勤交代制により、幕府城米、諸藩蔵米などの海上輸送が展開する。さらに諸商品の海外輸送も盛んとなり、城下町・港町・三都(大阪・京・江戸) を結ぶ海運のネットワークが整っていった。 そこで1670年(寛文10年)に、幕府は江戸商人河村瑞賢に東廻り航路の整備を命じる。「銚子内海江戸廻り」と呼ばれ、東北の石巻や荒浜などの積出港からいったん外海に出て、鹿島灘沖から銚子河口付近に入り、そこから利根川をさかのぼって江戸に入る航路が利用される。時間も距離も短縮できるが、波の荒い鹿島灘を横切り、暗礁を避けて銚子に入港するという、危険性の高いものであったため、「外海江戸廻り」という、東北の積出港から銚子沖を通り、房総半島をまわる。そして伊豆の下田に入り、そこから再び江戸に入る航路も利用されるようになる。この頃、江戸では醤油製造が伸びて行き、富農や名主層、近江商人、紀州の出身者などによって関東各地で作り始められたが、次第に独自の濃口醤油へと発展し、江戸への出荷を伸ばしていく。醸造家は関西からの下り醤油に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いながら、品質の向上を図る。そして文化・文政期に江戸前の調理が発達すると、関東の好みは濃口醤油へと急速に傾き、関東の醤油が江戸市場を押さえることになる。その製造の中心が、銚子と野田(野田市)であり、利根川や江戸川に接し、物資の輸送に便利であったからである。ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油などは、日本を代表する醤油メーカーとしての礎を築き、その後の銚子の繁栄につながったとしている。
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