明治維新から東京市成立までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 明治維新から東京市成立までの意味・解説 

明治維新から東京市成立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 16:58 UTC 版)

荒川区の町名」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説

以下、明治時代初期から荒川区成立までの行政区画変遷について略述する。 現在の荒川区区域は、かつては武蔵国豊島郡属す近郊農村地域で、大部分は峡田領はけたりょう)に属し三ノ輪千束村三河島村町屋金杉村上尾久村、下尾久村船方新堀村(にっぽりむら、のち日暮里村改称)、谷中本村などの々が存在した。なお、「峡田」の地名荒川区立の小学校校名として残っている。このほか、奥州街道沿いの地域早くから町地化し小塚原町、中村町、通新町とおりしんまち)、真正寺門前橋場町地方(じかた)などの町があった。このうち小塚原町と中村町は、千住大橋挟んで対岸千住宿加宿宿場機能一部担った隣村)で、本来、峡田領豊島郡)のうちであるが、淵江領(足立郡)の一部として扱われた。小塚原町と中村町は後に「千住宿南組」と改称された。 上掲町村のうち、三河島村町屋上尾久村、下尾久村谷中本村小塚原町、中村町、通新町真正寺門前全域新堀村大部分三ノ輪千束村金杉村船方橋場町地方の各一部現在の荒川区域に含まれる。このほか、三ノ輪町下谷三ノ輪町)の飛地も現・荒川区のうちである。 明治維新以降、これらの町村武蔵知県事支配経て東京府(ただし千住宿南組は小菅県)に属したその後明治4年7月1871年8月)の廃藩置県実施までの過渡期には複雑な変遷経ている。 慶応4年7月17日1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」改称され東京府設置された。なお、慶応4年9月8日1868年11月18日)に「明治」に改元している。現・荒川区区域存在した町村は、その大部分東京府編入された(明治元年11月1868年12月)。千住宿南組と船方武蔵知県事支配経て明治2年1月13日1869年2月)に発足した小菅県編入されたが、このうち船方同年4月東京府移管された。 明治2年2月1869年3月)、東京府では、町地郷村部との境界線定め朱引しゅびきが行われた。これは、皇居中心とした市街地江戸時代町奉行支配地に相当)を朱引内とし、その外側郷村とするもので、朱引内50区画分けて50番組50区)が設定された。同年5月1869年6月)、周囲郷村部にも5つの組が設定され、これを地方(じかた)5番組と称した。後に荒川区となる区域は、このうち地方3・4番組属した明治4年6月1871年7月)には朱引見直されて、朱引内44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。後に荒川区となる区域は、このうち朱引外の第6769区に属した明治4年7月1871年8月)、廃藩置県実施された。同年11月1872年1月)、従来東京府品川県小菅県廃止されて、新し東京府設置された。これに伴い同年から翌年にかけて品川県小菅県町村東京府編入され小菅県属していた千住宿南組も東京府編入されることとなった同年11月1872年1月)、府内は6大区97小区分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年1874年3月区割り見直されあらため11大区103小区設置された。後に荒川区となる区域は、大部分が第10大区第1小区属し地方橋場町は第10大区第3小区千住宿南組は第10大区第4小区船方は第9大区第3小区それぞれ属していた。 その後郡区町村編制法施行に伴い大区小区制廃止され明治11年1878年11月2日東京府下に15区6郡(荏原南豊島、北豊島、東多摩南足立、南葛飾)が置かれた。後に荒川区となる区域は、大部分北豊島郡属したが、町地のうち下谷新町下谷真正寺町(もと真正寺門前)は下谷区所属となった明治22年1889年)、市制・町村制施行され東京市15区からなる)が成立府下の6郡は既存町村整理統合され85町村となった85町村のうち北豊島郡属していたのは19町村(のち大泉村加わって20町村)で、このうち現在の荒川区区域該当するのは南千住町三河島村尾久村日暮里村の1町3である。三河島村大正9年尾久村大正12年日暮里村大正2年それぞれ町制施行した

※この「明治維新から東京市成立まで」の解説は、「荒川区の町名」の解説の一部です。
「明治維新から東京市成立まで」を含む「荒川区の町名」の記事については、「荒川区の町名」の概要を参照ください。


明治維新から東京市成立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 07:11 UTC 版)

北区の町名 (東京都)」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説

現在の北区区域は、かつては武蔵国豊島郡属し近世末には以下の16存在した上中里中里村田端村西ヶ原滝野川村豊島村王子村十条梶原堀之内村明治10年前後堀之内村改称)、船方神谷村下村岩淵宿岩淵本宿村)、袋赤羽根村、稲付村 上16区域おおむね現在の北区相当する。ただし、滝野川村一部現在の板橋区に、梶原堀之内村一部現在の豊島区に、船方一部現在の荒川区に、それぞれ属している。また、浮間地区大正15年1926年)、当時埼玉県北足立郡横曽根村現・川口市の一部)から岩淵町編入されたものである十条明治5年頃までに上十条村・下十条分かれた岩淵宿岩淵本宿村)は、明治8年1875年)より岩淵本宿町称している。他に八官新田という地名資料散見されるが、これは下村一部みなされている。 明治維新以降、これらの武蔵知県事支配経て東京府小菅県大宮県属し明治4年7月1871年8月)、廃藩置県実施までの過渡期には複雑な経緯たどった慶応4年7月17日1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」改称され東京府設置された。現・北区区域については、上中里中里村田端村西ヶ原滝野川村東京府編入された。梶原堀之内村船方明治2年1月1869年3月)に発足した小菅県にいったん編入されたが、同年4月東京府移管された。豊島村王子村十条神谷村下村岩淵本宿村、袋赤羽根村、稲付は、明治2年1月1869年3月)に発足した大宮県属した大宮県明治2年9月1869年11月)に浦和県改称した明治4年7月1871年8月)、廃藩置県実施された。同年11月1872年1月)、従来東京府品川県小菅県廃止されて、新し東京府設置された。この時、豊島郡のうち浦和県管轄だった部分上述豊島村以下9を含む)も東京府編入されることとなった。同じ時期府内は6大区97小区分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年1874年3月区割り見直されあらため11大区103小区設置された。後に北区となる区域は、このうちの第9大区第3・6小区属していた。 その後郡区町村編制法施行に伴い大区小区制廃止され明治11年1878年11月2日東京府下に15区6郡(荏原南豊島、北豊島、東多摩南足立、南葛飾)が置かれた。後に北区となる区域は、このうち北豊島郡属していた。 明治22年1889年)、市制・町村制施行され東京市15区からなる)が成立府下の6郡は既存町村整理統合され85町村となった85町村のうち北豊島郡属していたのは19町村で、このうち現在の北区区域該当するのは滝野川村王子村岩淵町の1町2である。王子村明治41年滝野川村大正2年それぞれ町制施行し王子町及び滝野川町となった

※この「明治維新から東京市成立まで」の解説は、「北区の町名 (東京都)」の解説の一部です。
「明治維新から東京市成立まで」を含む「北区の町名 (東京都)」の記事については、「北区の町名 (東京都)」の概要を参照ください。


明治維新から東京市成立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 15:02 UTC 版)

豊島区の町名」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説

後に豊島区となる区域は、近世末には武蔵国豊島郡属す近郊農村地域で、上駒込村巣鴨村新田堀之内村堀之内新田村)、池袋高田村雑司ケ谷長崎村などの々が存在した。これらの区域のうち、中山道沿いや寺院門前などは早くから町地化し巣鴨町巣鴨辻町駒込七軒町駒込三軒屋町駒込妙義坂下町高田四ツ家町雑司ケ谷町などの町が存在した。これらの町地延享2年1745年以降町奉行支配下となっている。 以上の町区域おおむね現在の豊島区域に相当するが、飛地編入区画整理に伴う町村界・区界変更に伴い梶原堀之内村堀之内村)、中丸村金井窪村小石川下落合滝野川村の各一部も現・豊島区域に含まれている。 明治維新以降、これらの町村武蔵知県事支配経て東京府一部小菅県大宮県県庁日本橋馬喰町)、品川県)に属したその後明治4年7月1871年8月)の廃藩置県実施までの過渡期には複雑な変遷経ている。 慶応4年7月17日1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」改称され東京府設置された。なお、慶応4年9月8日1868年11月18日)に「明治」に改元している。現・豊島区区域存在した町村は、その大部分東京府編入された(明治元年11月1868年12月)。梶原堀之内村明治2年1月13日1869年2月)に発足した小菅県にいったん編入されたが、同年4月東京府移管された。長崎村中丸村金井窪村は、明治2年1月28日1869年3月)に発足した大宮県属した県庁浦和置かれ大宮県明治2年9月1869年11月)に浦和県改称した下落合明治2年2月1869年3月)に発足した品川県編入された。 明治2年2月1869年3月)、東京府では、町地郷村部との境界線定め朱引しゅびきが行われた。これは、皇居中心とした市街地江戸時代町奉行支配地に相当)を朱引内とし、その外側郷村とするもので、朱引内50区画分けて50番組50区)が設定された。同年5月1869年6月)、周囲郷村部にも5つの組が設定され、これを地方(じかた)5番組と称した。後に豊島区となる区域は、このうち地方3番組に属した明治4年6月1871年7月)には朱引見直されて、朱引内44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。後に豊島区となる区域は、このうち朱引外の第65区に属した明治4年7月1871年8月)、廃藩置県実施された。同年11月1872年1月)、従来東京府品川県小菅県廃止されて、新し東京府設置された。これに伴い同年から翌年にかけて品川県小菅県町村東京府編入され浦和県一部上述長崎村中丸村金井窪村を含む)も東京府編入されることとなった同年11月1872年1月)、府内は6大区97小区分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年1874年3月区割り見直されあらため11大区103小区設置された。後に豊島区となる区域は、このうちの第9大区第1〜4小区属していた(ただし、下落合は第8大区第3小区)。 その後郡区町村編制法施行に伴い大区小区制廃止され明治11年1878年11月2日東京府下に15区6郡(荏原南豊島、北豊島、東多摩南足立、南葛飾)が置かれた。後に豊島区となる区域は、大部分北豊島郡属していた。ただし、巣鴨一〜四丁目などの一部町区域は当時小石川区属し下落合南豊島郡属していた。 明治22年1889年)、市制・町村制施行され東京市15区からなる)が成立府下の6郡は既存町村整理統合され85町村となった85町村のうち北豊島郡属していたのは19町村(のち大泉村加わって20町村)で、このうち現在の豊島区区域該当するのは巣鴨町巣鴨村高田村長崎村の1町3である。このうち巣鴨村大正7年1918年)、高田村大正9年1920年)、長崎村大正15年1926年)に町制施行しそれぞれ西巣鴨町高田町長崎町となった

※この「明治維新から東京市成立まで」の解説は、「豊島区の町名」の解説の一部です。
「明治維新から東京市成立まで」を含む「豊島区の町名」の記事については、「豊島区の町名」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明治維新から東京市成立まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明治維新から東京市成立まで」の関連用語

明治維新から東京市成立までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明治維新から東京市成立までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの荒川区の町名 (改訂履歴)、北区の町名 (東京都) (改訂履歴)、豊島区の町名 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS