明治維新から東京市成立まで
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「荒川区の町名」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説
以下、明治時代初期から荒川区成立までの行政区画の変遷について略述する。 現在の荒川区の区域は、かつては武蔵国豊島郡に属する近郊農村地域で、大部分は峡田領(はけたりょう)に属し、三ノ輪村、千束村、三河島村、町屋村、金杉村、上尾久村、下尾久村、船方村、新堀村(にっぽりむら、のち日暮里村と改称)、谷中本村などの村々が存在した。なお、「峡田」の地名は荒川区立の小学校の校名として残っている。このほか、奥州街道沿いの地域は早くから町地化し、小塚原町、中村町、通新町(とおりしんまち)、真正寺門前、橋場町地方(じかた)などの町があった。このうち小塚原町と中村町は、千住大橋を挟んで対岸の千住宿の加宿(宿場機能の一部を担った隣村)で、本来、峡田領(豊島郡)のうちであるが、淵江領(足立郡)の一部として扱われた。小塚原町と中村町は後に「千住宿南組」と改称された。 上掲の町村のうち、三河島村、町屋村、上尾久村、下尾久村、谷中本村、小塚原町、中村町、通新町、真正寺門前の全域、新堀村の大部分、三ノ輪村、千束村、金杉村、船方村、橋場町地方の各一部が現在の荒川区域に含まれる。このほか、三ノ輪町(下谷三ノ輪町)の飛地も現・荒川区のうちである。 明治維新以降、これらの町村は武蔵知県事の支配を経て、東京府(ただし千住宿南組は小菅県)に属した。その後、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県実施までの過渡期には複雑な変遷を経ている。 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。なお、慶応4年9月8日(1868年11月18日)に「明治」に改元している。現・荒川区の区域に存在した町村は、その大部分が東京府に編入された(明治元年11月・1868年12月)。千住宿南組と船方村は武蔵知県事の支配を経て、明治2年1月13日(1869年2月)に発足した小菅県に編入されたが、このうち船方村は同年4月に東京府へ移管された。 明治2年2月(1869年3月)、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める朱引(しゅびき)が行われた。これは、皇居を中心とした市街地(江戸時代の町奉行支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。同年5月(1869年6月)、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方(じかた)5番組と称した。後に荒川区となる区域は、このうち地方3・4番組に属した。明治4年6月(1871年7月)には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。後に荒川区となる区域は、このうち朱引外の第67〜69区に属した。 明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。これに伴い、同年から翌年にかけて品川県と小菅県の町村が東京府に編入され、小菅県に属していた千住宿南組も東京府に編入されることとなった。同年11月(1872年1月)、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に荒川区となる区域は、大部分が第10大区第1小区に属し、地方橋場町は第10大区第3小区、千住宿南組は第10大区第4小区、船方村は第9大区第3小区にそれぞれ属していた。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に荒川区となる区域は、大部分が北豊島郡に属したが、町地のうち下谷通新町、下谷真正寺町(もと真正寺門前)は下谷区の所属となった。 明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち北豊島郡に属していたのは19町村(のち大泉村が加わって20町村)で、このうち現在の荒川区の区域に該当するのは南千住町、三河島村、尾久村、日暮里村の1町3村である。三河島村は大正9年、尾久村は大正12年、日暮里村は大正2年にそれぞれ町制を施行した。
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明治維新から東京市成立まで
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「北区の町名 (東京都)」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説
現在の北区の区域は、かつては武蔵国豊島郡に属し、近世末には以下の16村が存在した。 上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村、滝野川村、豊島村、王子村、十条村、梶原堀之内村(明治10年前後堀之内村と改称)、船方村、神谷村、下村、岩淵宿(岩淵本宿村)、袋村、赤羽根村、稲付村 上記16村の区域がおおむね現在の北区に相当する。ただし、滝野川村の一部は現在の板橋区に、梶原堀之内村の一部は現在の豊島区に、船方村の一部は現在の荒川区に、それぞれ属している。また、浮間地区は大正15年(1926年)、当時の埼玉県北足立郡横曽根村(現・川口市の一部)から岩淵町に編入されたものである。 十条村は明治5年頃までに上十条村・下十条村に分かれた。岩淵宿(岩淵本宿村)は、明治8年(1875年)より岩淵本宿町と称している。他に八官新田という地名も資料に散見されるが、これは下村の一部とみなされている。 明治維新以降、これらの村は武蔵知県事の支配を経て、東京府、小菅県、大宮県に属し、明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県実施までの過渡期には複雑な経緯をたどった。 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。現・北区の区域については、上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村、滝野川村は東京府に編入された。梶原堀之内村と船方村は明治2年1月(1869年3月)に発足した小菅県にいったん編入されたが、同年4月に東京府へ移管された。豊島村、王子村、十条村、神谷村、下村、岩淵本宿村、袋村、赤羽根村、稲付村は、明治2年1月(1869年3月)に発足した大宮県に属した。大宮県は明治2年9月(1869年11月)に浦和県に改称した。 明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。この時、豊島郡のうち浦和県管轄だった部分(上述の豊島村以下9村を含む)も東京府に編入されることとなった。同じ時期に府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に北区となる区域は、このうちの第9大区第3・6小区に属していた。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に北区となる区域は、このうちの北豊島郡に属していた。 明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち北豊島郡に属していたのは19町村で、このうち現在の北区の区域に該当するのは滝野川村、王子村、岩淵町の1町2村である。王子村は明治41年、滝野川村は大正2年にそれぞれ町制施行し、王子町及び滝野川町となった。
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明治維新から東京市成立まで
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「豊島区の町名」の記事における「明治維新から東京市成立まで」の解説
後に豊島区となる区域は、近世末には武蔵国豊島郡に属する近郊農村地域で、上駒込村、巣鴨村、新田堀之内村(堀之内新田村)、池袋村、高田村、雑司ケ谷村、長崎村などの村々が存在した。これらの村の区域のうち、中山道沿いや寺院の門前などは早くから町地化し、巣鴨町、巣鴨辻町、駒込七軒町、駒込三軒屋町、駒込妙義坂下町、高田四ツ家町、雑司ケ谷町などの町が存在した。これらの町地は延享2年(1745年)以降、町奉行の支配下となっている。 以上の町村の区域がおおむね現在の豊島区域に相当するが、飛地の編入、区画整理に伴う町村界・区界の変更等に伴い、梶原堀之内村(堀之内村)、中丸村、金井窪村、小石川村、下落合村、滝野川村の各一部も現・豊島区域に含まれている。 明治維新以降、これらの町村は武蔵知県事の支配を経て、東京府(一部は小菅県、大宮県(県庁は日本橋馬喰町)、品川県)に属した。その後、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県実施までの過渡期には複雑な変遷を経ている。 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、それまでの「江戸」が「東京」に改称され、東京府が設置された。なお、慶応4年9月8日(1868年11月18日)に「明治」に改元している。現・豊島区の区域に存在した町村は、その大部分が東京府に編入された(明治元年11月・1868年12月)。梶原堀之内村は明治2年1月13日(1869年2月)に発足した小菅県にいったん編入されたが、同年4月に東京府へ移管された。長崎村、中丸村、金井窪村は、明治2年1月28日(1869年3月)に発足した大宮県に属した。県庁が浦和に置かれ、大宮県は明治2年9月(1869年11月)に浦和県に改称した。下落合村は明治2年2月(1869年3月)に発足した品川県に編入された。 明治2年2月(1869年3月)、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める朱引(しゅびき)が行われた。これは、皇居を中心とした市街地(江戸時代の町奉行支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。同年5月(1869年6月)、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方(じかた)5番組と称した。後に豊島区となる区域は、このうち地方3番組に属した。明治4年6月(1871年7月)には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。後に豊島区となる区域は、このうち朱引外の第65区に属した。 明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県が実施された。同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止されて、新しい東京府が設置された。これに伴い、同年から翌年にかけて品川県と小菅県の町村が東京府に編入され、浦和県の一部(上述の長崎村、中丸村、金井窪村を含む)も東京府に編入されることとなった。同年11月(1872年1月)、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りが見直され、あらためて11大区・103小区が設置された。後に豊島区となる区域は、このうちの第9大区第1〜4小区に属していた(ただし、下落合村は第8大区第3小区)。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)が置かれた。後に豊島区となる区域は、大部分が北豊島郡に属していた。ただし、巣鴨一〜四丁目などの一部の町区域は当時の小石川区に属し、下落合村は南豊島郡に属していた。 明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、東京市(15区からなる)が成立、府下の6郡は、既存の町村が整理統合されて85町村となった。85町村のうち北豊島郡に属していたのは19町村(のち大泉村が加わって20町村)で、このうち現在の豊島区の区域に該当するのは巣鴨町、巣鴨村、高田村、長崎村の1町3村である。このうち巣鴨村は大正7年(1918年)、高田村は大正9年(1920年)、長崎村は大正15年(1926年)に町制施行し、それぞれ西巣鴨町、高田町、長崎町となった。
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