日本移住
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「ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギー」の記事における「日本移住」の解説
ミヒャエルは2002年から日本で生活している。2002年まで主にウィーンで活動した後に、日本で日本人の妻と暮らしている。 父の影響もあり日本への関心は幼少期から芽生えていた。作品にジャポニスムも見受けられる。例えば日本庭園の池を泳ぐ『錦鯉』、着物女性とオスクジャクの『Two beauties in the rosegarden』(2013年)など。 1958年ブリュッセル万国博覧会では日本食レストランで初めてそばを食べた。1976年、奨学金にて日本に初めて渡航した。1978年に東京で個展が開催された。「作品には気持ちとして日本的なものは忘れていない」、ミヒャエルは2008年にギャルリー江夏(江夏画廊)にて行われたインタビューでこのように言った。 2004年7月に東京のパレスホテルでEU拡大記念として駐日欧州委員会代表部などの後援で開催された個展は、伯父リヒャルトと親交のあった鹿島建設の鹿島守之助が設立した鹿島平和研究所の協力があり、ミヒャエルの絵画と併せて伯父リヒャルトと鹿島守之助の二人の軌跡も紹介された。 2007年2月、総理大臣安倍晋三の夕食会にチェコ大統領ヴァーツラフ・クラウスとともに同席した。 2010年に軽井沢銀座通りの「テニスコート通り」にミヒャエルの同名絵画作品「テニスコート通り」が掲出された。 2011年3月の東日本大震災の直後には関東地方のアトリエで震災に関する7枚のスケッチを描き、それをもとにした「ガレキから芽吹く希望の若葉と昇龍」の絵を2012年の大震災復興祈念行事に提供し、ミヒャエルのメッセージは「友よ、追悼とともに復興と希望を分かちあおう」。彼はドラゴンの絵を繰り返し描いている(2006年には大きなドラゴンとドラゴンのボールの油彩『レジェンド』。同2006年江ノ島を包み込む『江ノ島の龍』。同2006年オレンジや青白い大きなボールとドラゴンの『銀河のドラゴン』。他、キャンバスを埋め尽くす一匹の『ファンタジック・ドラゴン』)。 10月、駐日ハンガリー大使館は新任大使セルダヘイ・イシュトヴァーンの着任パーティを開催し、クーデンホーフ=カレルギー夫妻他、経団連会長米倉弘昌、政治・経済関係者、新聞社らが参加した。 2012年2月、駐日欧州連合代表部は駐日ハンガリー大使館からミヒャエルの油彩画「ブダペスト」の長期間貸与を受けることに感謝をし、ミヒャエルは駐日欧州連合代表部による昼食会に招待され、ハンス・ディトマール・シュヴァイスグート駐日EU大使、セルダヘイ・イシュトヴァーン駐日ハンガリー大使と会食した。駐日EU大使はこの油彩画が飾られている駐日欧州連合代表部(ヨーロッパハウス)の大広間を「クーデンホフ=カレルギーの間」と命名した。10月からは駐日オーストリア大使公邸が「公邸に芸術」を企画し、オーストリア大使公邸でのミヒャエルの作品展示が開始した。 2012年、オーストリア大統領から職業専門称号「教授」を授与され、翌2013年1月24日、「教授」伝達式、およびオーストリアの文化賞の伝達式が行われた。伝達式には伯父リヒャルトの友愛精神を継承している鳩山由紀夫も特別ゲストとして参加した。3月に受賞記念の絵画展が東京渋谷Bunkamura(文化村)で開催され、駐日欧州連合代表部「クーデンホフ=カレルギーの間」に飾られている「ブダペスト」も持ち込まれ、本人が来場した。同2013年、NHK教育テレビジョン『テレビでドイツ語』出演。クーデンホーフ=カレルギー家とNHKには縁がある。 2018年12月26日、神奈川県茅ヶ崎市にて死去。81歳没。
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