日本最大の財閥へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:37 UTC 版)
三井財閥は他の財閥に先駆けて、1909年(明治42年)に三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立した。世界史上における扱いとして、デュポンやロックフェラーは基本的には単一業種でクルップについても同じことが言える。ことにロックフェラーがスタンダード・オイルで採用したトラスティー方式は日本では見られなかった。その後、多数の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッド型に結合する形は一般化した。これによる生産の伸長に伴い、貿易が進展し、その担い手の商社も飛躍的に発展した。三井物産は取引額15億4000万円となり、三井工業部なども資本金が6倍、貿易金融には横浜正金銀行のほかに台湾銀行、朝鮮銀行、日本興業銀行、日本勧業銀行などが参加して外国為替業務を行うようになった。 1911年に樺太国有林の伐採権を得、1914年11月には大泊郡大泊町でパルプ工場の操業を開始。1915年(大正4年)の二十一ヶ条要求をきっかけに、中国・満州に進出。日本興業銀行を中心に約2.5億円の対中国借款が行われ、対外貸付額は総額11億円に達した。また、三井造船は日本初のディーゼル船・赤城丸などを導入。これら海洋国家と貿易の相乗効果で三井は日本最大の財閥として君臨した。 1913年(大正2年)には東京三田に日本最大の富豪だった三井家の豪華な接客用建物としてコンドルの設計により三井倶楽部が完成した。
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