日向の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)
詳細は「根白坂の戦い」を参照 秀長は3月上旬には小倉に達した。このころ、島津家久が豊後松尾城(大分県豊後大野市三重町松尾)にうつり、府内城には島津義弘が入っていたが、豊臣方はすぐに豊後を攻めるのではなく、高野山の僧木食応其を使者として府内城に送って秀吉との講和を勧めた。しかし、義弘はこれを拒否した後、家久と共に豊後から撤退。豊臣方はこれを追い、3月18日に島津軍は豊後・日向国境で大友家臣・佐伯惟定の追撃を受けた(梓越の戦い)。19日、義弘は高城(宮崎県児湯郡木城町高城)にうつり、3月20日には家久とともに日向の都於郡城(宮崎県西都市都於郡)に退いて、義久も含めて兄弟3人はこの城で軍議をおこなった。 一方秀吉はかねてより日を定めていた3月1日に大坂城を進発し、山陽道を悠然と下って3月25日に赤間関に到着した。赤間関では秀長と九州攻めに関する協議をおこなった。このとき、上述のとおり、秀長が東九州の豊後・日向をへて薩摩に進軍すること、秀吉が西九州の筑前・肥後をへて薩摩に向かうことが約された。 秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。 高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅であったが、逆に包囲される形勢となった。このとき、藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景が後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫した。義久・義弘は都於郡城に退却し、家久も佐土原城(宮崎市佐土原町)に兵を引いた。さらに、豊臣秀次が都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠った。 後に、宮部継潤が日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、秀吉は「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)と働きを讃えた。この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦戸次川の戦いに望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った戦いであった。
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