新日本プロレスとの業務提携
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「UWF」の記事における「新日本プロレスとの業務提携」の解説
活動停止後に社長の浦田昇は、新日本・全日本との本格的な業務提携交渉を開始。全日本との交渉は、長州力らジャパンプロレス勢や、先にUWFを退団して全日本に参戦していたラッシャー木村や剛竜馬ら旧国際プロレスの選手たちによって飽和状態であり、所属選手全員を受け入れる余力はなかった事から決裂。新日本との交渉に望みをかけた。新日本との交渉は難航したが、1985年12月6日に業務提携を発表。前田、高田、山崎、藤原、木戸が古巣である新日本に電撃復帰することになった。 前田は挨拶に立った新日本のリングで「この1年半、UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」と宣言した。なお、崩壊以前から前田はジャイアント馬場から「全日本に来ないか」と誘われていたが、上記の通り選手は飽和状態で、馬場がオファーしたのは前田と高田だけだった為、他の選手の事を考え断っている。 1986年1月、新日本からの要求により、猪木への挑戦権を賭け、5選手による「UWF代表者決定リーグ戦」が新日本新春シリーズにて行われる。2月5日の大阪城ホール大会で、リーグ戦を勝ち抜いた藤原と前田によるUWF代表者決定戦が行われ、試合は両者リングアウトの後、延長戦となり、終盤、前田は藤原をスリーパーで決めるが、その一方で藤原も前田をレッグロックに捕える。藤原が口から泡を吐いて失神同然になったものの、前田も同時にタップ。レフリーのミスター高橋は藤原の勝利を告げ、UWF代表として猪木への挑戦権を獲得。2月6日、両国国技館で行われた新日本プロレス対UWFの頂上対決は、かつての師匠と、その付き人の一戦となる。試合は猪木があくまでも自分が格上であることを意識した試合を運び、局部への蹴りや顔面へのストレートパンチとラフファイトの末に藤原は絞め落とされ敗戦したが、直後に前田がリングに乱入し、勝ち名乗りを上げる猪木の顎に不意打ちのハイキックを見舞いダウンさせた。前田は反則技を織り交ぜた上で藤原に勝利した事に激昂、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか」と猛批判して、これを契機に新日本とUWFの全面抗争に突入する。 彼らはUWFスタイルを貫いて新日本に真っ向からイデオロギー対決を挑み、2つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日本はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)は、佐山聡(タイガーマスク)の引退や長州を筆頭とするジャパンプロレス勢の大量離脱、マシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけ、ファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎。当時、ワールドプロレスリングで実況担当していた古舘伊知郎は「闘いのカムバックサーモン現象」と呼んだ。 その中で今も語り継がれる名勝負や名シーンも数多く生み出されている。1986年3月26日、東京体育館大会で新日本対UWFの5対5イリミネーションマッチが行われた。4月29日、津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアント戦のシュートマッチは、先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策したものとされ、この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れて結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での勝利で、前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田と越中詩郎のIWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。 1986年6月12日、大阪城ホールで行なわれたIWGPリーグ戦での、前田日明と藤波辰巳のシングルマッチでは、前田は序盤からキックを顔面や胸板に浴びせるが藤波は真っ向から受け、コーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キックにより、藤波は額を切り大流血して最後は前田がロープに飛ぶというUWFとしては異例の行動を取る。前田の放ったフライングニールキックと藤波のジャンピング・ハイキックが空中で交差して両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後に前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り上辺ではUWFと新日本の雪解けを予感させたが、新日本、UWFともにフラストレーションは高まる一方で、遠征先の熊本県水俣市の旅館で設けられた親睦の宴席では、双方泥酔し大暴れした挙げ句に旅館を破壊する騒動を起こした。 1987年、長州らジャパンが新日本に電撃復帰し、6月12日の両国国技館大会で行われたIWGPリーグ戦決勝戦の猪木対マサ斎藤戦で猪木が4連覇を達成した後、いつまで経ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか。今しかないぞ俺たちがやるのは」と、リングから藤波と前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「どうせやるんだったら世代闘争に終わらんとな、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ決まるまで」と呼応し、猪木、斎藤ら旧世代軍と長州、藤波、前田を中心とする新世代軍の戦いが始まった。 しかし発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世代軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことで、長州と前田の間で確執ができ、ついに1987年11月19日の後楽園ホール大会で行われた維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田が長州を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負い、プロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田は、その行為を内外から問題視され、無期限出場停止処分となった(前田は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き「今から蹴りますよ」と合図を送ったが、肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否したことで、1988年2月1日付けで前田は新日本から契約を解除される。
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