政治家としての活躍と挫折
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「セーチェーニ・フェレンツ」の記事における「政治家としての活躍と挫折」の解説
1775年にペシュトにあった最高法院の職員として出仕し、その後コーセグ地方の判事として派遣された。 1777年にフェレンツはフェステティチ・ユーリア(1753年 - 1824年)と結婚する。だが、実はユーリアは亡くなった兄の未亡人であり、一族などからは強い反対を受けた。これを機にフェレンツはショプロン地方内のナッツェンクに居城を移すことになる(この年に最後まで健在であった叔父・イグナーツが66歳で病死し、フェレンツは居城のあったナッツェンクを継承していた)。彼は政治家だけでなく財政家としての才能も発揮し、領内の整備とセーチェーニ家の財政再建に成功し後の膨大な図書購入の費用の捻出に役立てた。 ヨーゼフ2世の改革にはハンガリーにおける政治改革への期待からこれを支持した(ただし、聖イシュトヴァーンの王冠のハンガリーからの移出やドイツ語の公用語化には反対した)。この功績によって1785年にペーチ州の初代州長官に任じられて、1781年に秘書として採用されたハイノーチィ・ヨージェフ(1750年 - 1795年・hu)の助力を得て自由主義的な改革を行った。だが、ドイツ語公用語問題によって急激に国内で高まった自由主義・民族主義的な下からの突き上げと保守的な貴族層の抵抗の間で板ばさみになり、わずか1年で辞任を余儀なくされた。 傷心のフェレンツは1787年に妻や側近とともにドイツ・ベルギー・イギリスなどを巡る旅行に出る。この間に蔵書整理の参考とするためにハイノーチィとともにプラハやドレスデン、ゲッティンゲンなどの王立図書館や大学図書館、博物館、著名な書籍商や学者の元を訪れ、イギリスでも大英博物館・オックスフォード大学・ケンブリッジ大学などの図書館を訪問しており、イギリスでは民衆にも読書の必要性が認識され始めていることを知って衝撃と感動を受けたとされている。フェレンツは単なる静養の積りであったが、折りしもプロイセンとハプスブルク帝国内の反皇帝派勢力が秘かに結んでいるという情報が流れて両国関係が緊張している時期と重なった。このため、フェレンツが秘かにプロイセンや国外の反皇帝派とフリーメーソン人脈を通じて通謀しているという噂がウィーンのヨーゼフ2世の元にも入っており、ヨーゼフ2世や次のレオポルト2世、フランツ2世から強い警戒感を抱かれることになる。だが、フェレンツの方はそれに暫く気付かなかったらしく、帰国後はハイノーチィを司書として国内外から貴重な書籍や進歩的な書籍の蒐集に努め、これを整理して自らの政治活動に役立てようとしたのである。 1790年にハンガリー議会の一員に選ばれたフェレンツは、宗教的寛容と貴族階層への課税と小作人層の解放を主張したが、保守派と激しく対立した。その頃、ウィーンの宮廷で言われなき疑いをかけられていることを知ったフェレンツは、宮廷に対して政治的工作を行った。ハンガリー貴族を抑えて皇帝の政治力を浸透させたいレオポルト2世と同国議会で孤立しつつあったフェレンツは手を組む形となり、1792年にはレオポルド2世の使節としてナポリ王国に派遣されている。 ところが、1794年にハンガリー・ジャコバン党事件と呼ばれるフランス革命の影響を受けた急進的な自由主義者がハンガリーで革命を起こしてハプスブルク帝国からの独立を勝ち取ろうとする事件が発生する。首謀者7名は翌年ブダで処刑された。その中にハイノーチィ・ヨージェフが含まれていたことがフェレンツに大きな衝撃を与えた。以後、フェレンツは革命に対する恐怖から自由主義を捨てて、カトリックの信仰に身を委ねるとともにハプスブルク君主主義者へと転向することになる。1796年、彼は議会でフランスとの戦争への全面支持を訴えて、自らも1万2千フォリントの献金を行った。以後もハプスブルク帝国への忠誠に尽力したフェレンツは1797年にジョモジ県令に任じられた後、最高法院判事に転じ、1806年には議員を退いたものの、ハンガリー総督であるヨーゼフ大公の要請を受けて最高法院判事の身分のまま、ヴァシュ県令に転じた。1808年には金羊毛騎士団に参加を許されているが、1811年に公務から引退を宣言している。
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