播磨鑑
播磨鑑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:48 UTC 版)
播磨の地誌『播磨鑑』に伊織の記事がある。 宮本伊織 伊織は宮本武蔵の養子、米田村の産なり、父を甚兵衛といひ、元は三木侍なりしが別所落城の後米田村に来り伊織を生む、(「天狗伝説」略)時に赤石の城主小笠原家に宮本武蔵という天下無双の兵術者を召抱えられ客分にてありしが、伊織十六歳の時其家に召使はれしに器量勝れたる故武蔵養いて子と為せり、後主家豊前小倉に所替にて従い下りける、時に島原一揆蜂起の節戦場に出でて大功あり、其賞として三千石賜はる、始は無役なりしが後には家老職となれり、子孫ゆかりの者米田村にあり、其後伊織氏宮たるにより泊大明神の社頭、拝殿、舞殿、舞台、門守等悉く建立せり、即ち石灯籠に作事の奉行人等銘彫現然なり、即ち泊の古宮を米田村に曳き取り建立せられ内宮と号す、泊には堂上家の歌仙三十六枚(三十六歌仙)其外珍品数多く寄付せらる、後年に至るまで其子孫小倉より江戸往来の節は泊社へ社参ありしと也、伊織の母は加東郡垂井荘宮脇村の人也、依て伊織も久しく宮脇村に居たりといふ。 『小倉宮本家系図』には、武蔵と伊織が同姓の叔父・甥の間柄となっているが、伊織の地元の地誌に書かれていないことが注目される。武蔵が伊織を養子にしたのは、屋敷に召使っていて器量が勝れていたからであるとしている。伊織の出自、経歴、事象、子孫の事、及び子供のころ伊織が天狗にさらわれた天狗伝説まで詳しく書いている所は、編著者の平野庸修が伊織と同じ印南郡の人であることから、同郷出身の偉人としてよく知っていたものであろう。また文中に、米堕に今も子孫(田原氏は代々米田の庄屋)が居住していると紹介していることから、隣村平津の医者であった平野は、田原氏の子孫を訪ねて調査したものと考えられる。 また、別項目で、武蔵と伊織を並べて紹介し、わざわざ同じ播磨内の別の出自として紹介している。 宮本武蔵 揖東郡鵤の邊、宮本村の産也。若年より兵術を好み、諸国を修行し、天下にかくれなく、即ち武蔵流と云て、諸士に門人多し。然れども諸侯に仕えず、明石に到り、小笠原右近将監侯に謁見し、其時、伊織を養子とし、其後、小笠原侯、豊前小倉に赴き玉ふとき、同伴し、養子伊織に五千石を賜はりて、大老職に仕官す。今に其子孫三千石にて家老職と云。此宮本武蔵こと、佐用郡平福の住、風水翁の説と相違有り。別書に之を記す。 宮本伊織 印南郡米田村の産也。宮本武蔵、養子とす舊蹟の部に委く記す。 伊織の「舊蹟(ふるあと)の部に委く記す」というのは先の文である。この地誌が書かれた宝暦十二年(1762年)まで、播磨地方に武蔵が伊織と同じ田原氏の出自であるという伝承はなかったようである。
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