投票後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 03:32 UTC 版)
「1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票」の記事における「投票後の動き」の解説
投票結果を受けて、ウンベルト2世はザーラ、トリエステ、南ティロルの住民や国外で捕虜として抑留されている者が投票に参加出来なかったこと、また法務大臣パルミーロ・トリアッティが選挙干渉を行ったことなどを理由に、破棄院(最高裁判所)に異議申立てを行ったが、破棄院は6月18日これを棄却する判決を下した。6月11日にはナポリで、投票結果をめぐって王党派と共産党員の武力衝突が起き、9人の死者が出た(メディナ通りの虐殺(イタリア語版))。 6月12日、臨時政府は破棄院の判決を待たずに王政を廃止して共和制に移行することを決定。ウンベルト2世は廃位され、サヴォイア家ともども国外追放処分となった。翌13日、ウンベルト2世は「癒しがたい痛みを伴うものであるが、予はその義務を果たすべく、この地を去るものである」との声明を残してポルトガルへ亡命した。国王廃位とともにあらたな国家元首を決めなければならなくなったため、当座は首相のアルチーデ・デ・ガスペリが暫定国家元首を代行するかたちで事務を引き継ぎ、28日に招集された制憲議会においてエンリコ・デ・ニコラが暫定国家元首に選出された。デ・ニコラはその去就に三日三晩逡巡するが、7月1日になってついに就任を受諾した。この両者のリーダーシップのもとで制憲議会はイタリア共和国憲法を制定、翌1947年12月27日に公布された。そして年明けの1948年1月1日の施行をもってイタリア共和国が成立、ここにデ・ニコラは正式に共和国大統領として宣誓就任式を行った。 イタリア共和国憲法は、その第139条に「共和政体は憲法改正の対象とはならない」ことが明記されており、これで王政復古の動きは完全に封じ込められることになった。またそれまでイタリア王国の国旗や国章の意匠として使用されていたサヴォイア家の「盾十字」の紋章も除かれ、共和国旗は簡明な緑白赤の縦割三色旗となり、共和国章の方は一般公募で新たに五芒星と歯車にオリーブとナラの枝を組み合わせた斬新なデザインが採用され制定された。 サヴォイア家紋章 イタリア王国旗 (1861––46) イタリア王国章 (1890–1929, 1944–46) イタリア共和国旗 (1946– ) イタリア共和国章 (1948– )
※この「投票後の動き」の解説は、「1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票」の解説の一部です。
「投票後の動き」を含む「1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票」の記事については、「1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票」の概要を参照ください。
- 投票後の動きのページへのリンク