所在地をめぐる諸説
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越南(ベトナム)において南漢が独立すると、馬援銅柱についての記述は、歴史書から消えていった。1272年に蒙越戦争(中国語版)の休戦が結ばれた際、元の世祖(クビライ)は越南に人を派遣し、馬援銅柱の位置を探させた。しかし、大越陳朝の皇帝陳聖宗からの使いは、「銅柱は埋没して多年が経っており、どこにあるかは分からず、探し出せません。この件は分からないままということで終わりにします(銅柱歳久湮沒,不知在何処,無法找回。此事最終不了了之)」と述べたという。 馬援銅柱は現存していないが、6世紀はじめに成立した北魏の酈道元の著作『水経注』には、それが象林県(中国語版)の南部にあったと述べており、また、15世紀前半に成立した黎崱(中国語版)の『安南志略(中国語版)』は欽州の古洞上にあるとしており、17世紀後半に成立した『大越史記全書』もこの欽州古洞説に沿った説明をしているが、19世紀のベトナム側の文献である『欽定越史通鑑綱目(中国語版)』は富安省(フーイエン省)に所在していたとしている。 なお、阮朝の高春育(中国語版)が編纂した『大南輿誌要編』の中では、富安省の域内に銅柱の遺跡がないことを根拠として、馬援が銅柱を建てたという話は史実ではないとしている。ベトナムの歴史学者、ダオ・ズイ・アイン(陶維英)は、現代のゲアン省のヌイタイン(Núi Thành / 𡶀成)に馬援銅柱があったとしている。
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所在地をめぐる諸説
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松原客館の所在地については考古学上の決定的な物的証拠が見つかっておらず、伝承や歴史地理学的な見地から、以下のようにいくつかの説が提示されている。 櫛川遺跡 - 現在の別宮神社付近。神社前の発掘調査では平安時代の祭祀遺跡がみられ、異国人の入国に際し、祓いの儀式を行なった跡とも考えられている。銅銭、小鏡、銅鈴、須恵器などが出土している。 松原遺跡 - 気比の松原一帯。砂浜は砂丘の発達に伴い、古代から現在にかけて徐々に北進しており、3列の浜堤を形成している。平安時代は南側の1・2列目付近の浜堤(現在の県立敦賀高校付近)が海岸線であった。この付近から製塩土器・須恵器・銅銭が出土している。 神明神社 - 現在地の松島町ではなく、旧所在地の松栄町の福井地方法務局敦賀支局の付近。客館の跡地であるという伝承がある。 来迎寺・永建寺付近 - 近世の松中村付近、現在の松島町二丁目付近にあたる。空中写真と標高の検討から、古代には笙の川の河口は大きな入り江となっており、この付近が入江の西の浜堤岬上に相当すると推定する。異国からの使節を隔離し、入江の東側の気比神宮からも見通しがよく適地とする。 気比神宮の北 - 神宮の北側に入江があった可能性がある。 気比神宮の西 - 神宮の西に「館出口」「館ノ腰」という小字名があること、および神宮宮司が客館の管理を行なったならば、すぐ近くにあったはずであるとの理由(千田稔の説)。 中遺跡 - 敦賀インターチェンジ付近。古墳群、弥生時代の遺跡から近く、平安時代の遺物も多量に出土している。 金ヶ崎 - 客館管理を担った気比神宮に近く、かつ客館は景勝の地であるべきとの見地から金ヶ崎付近とする(蘆田伊人の説)。 西福寺 - 松原の西端の井ノ口川付近にも古代に入江があった可能性、そこから近いことと、寺伝によれば開創時に和同開珎133枚が出土した。
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