戦国期における武田八陣と兵種別編成
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「日本の陣形史」の記事における「戦国期における武田八陣と兵種別編成」の解説
戦国期において八陣の実戦使用は、天文16年(1547年)、武田信玄に対し、山本勘助が『軍林宝鑑』に記される「諸葛孔明八陣の図」を工夫し、諸人に理解できるようにすべきと示し、「唐(中国)の軍法には、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月(えんげつ)・鋒矢(ほうや)・方両(ほうよう)・衡軛(こうやく)・井雁行があるが、その中身を理解している人は日本にいない」ことを説明し、作り直すよう提案した(『甲斐志料集成九』202項)ことから始まる。『軍林宝鑑』は別名を『軍林兵人宝鑑』といい、13世紀成立であり、八陣図はあるものの、魚鱗や鶴翼といった名称はなく、勘助が参考にした八陣図に関しては、まず『鴉鷺合戦物語』(15世紀成立)に記される「三系統の八陣の概念」を知る必要がある。まず第一に、「天・地・風・雲・飛龍・翔鳥・虎翼・蛇蟠」が紹介され、この系統は『応永記』応永6年(1399年)10月13日条に同様の名称があることから14世紀終わりにはあったものとみられる。第二に、李善の『雑兵書』の「方陣・円陣・牝陣・牡陣・衝陣・輪陣・浮沮陣・雁行陣」。第三は、張良が編み出したとされるもので、「魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月等の陣」の4種だけ紹介されている。つまり、勘助が信玄に上申した八陣とは、以上の三系統の八陣の概念を合わせたものと考えられ、張良由来と伝わる和風名称の八陣を取り入れ、独自に編み出したものとみられる。なお、勘助は軍学を体系的に学んでいないと神前で告白している(『甲陽軍鑑』品第二十七)。 同年10月において、武田軍が長尾景虎に対して八陣を使用したが、これが戦国期の八陣の使用としては確実な例とされる。武田八陣の名称は明治期の戯作では、「曲・直」などと記され、または「八字・丁字」などとも書かれ、今日のように魚鱗や鶴翼といった名称を用いられておらず、近代初期においては浸透していなかった。武田八陣のイメージが確立したのは二次大戦後のこととみられている。実際には定型の八陣が使用されたのは戦国期では信玄が一時期、試用しただけで(それも村上義清の兵種別編隊に破られ、有用性がないことを証明してしまっている)、『甲陽軍鑑』に記録が残されたことで、近世初期の軍学者の気を引いたが、後期には忘れ去られたのである(それに対し、後述の村上義清の兵種別編隊は全国へと広がりを見せる)。 一方で、上杉家の陣形の由来は村上義清と武田家の戦いがきっかけとなる。『妙法寺記』天文17年(1548年)に記された塩田原の戦いにおいて、義清が追いつめられた時に編成した兵種別による隊形であった。これが本格的な兵種別編成による中世初の戦いである。この戦いにおいて信玄本人を負傷させるも、敗れた義清は上杉家に支援を求めることとなる。経済的に豊かだった謙信は、使い捨てとして編み出した義清の隊形と戦術を取り入れ、これを常備軍の隊形とした。鉄砲百・弓百・長手鑓百・総旗・騎馬百の兵種で、順序はその時々で変化した(旗本同士が戦うための戦法)。この「五段隊形」は上杉軍に対抗する形で東国各地に広がり、西国大名にも伝わることになる。最終的に日本全国に広まったこの隊形は、文禄の役において、朝鮮半島にまで使用され、朝鮮側の官軍が文禄5年(1596年)2月17日に「倭人の陣法を学習させる」ことになる(『宣祖実録巻七十二』)。その図には、旗持が前列で左右に展開し、二列に鉄砲隊、三列に歩兵、その左右に騎兵というもので、かつて古代では大陸側の陣形に影響されていた日本が、中世戦国期では、大陸側に影響を与える側となった。 村上義清が生み出した兵種別編隊は上杉謙信によって常備軍となり、それに対抗する形で、東国に、そして全国へと(海外にも)広がり、近世(徳川時代)の軍役にまでつながり、幕末まで各藩の基本隊形となった。
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