度重なる計画変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:30 UTC 版)
「東海北陸自動車道」の記事における「度重なる計画変更」の解説
伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ日本横断運河構想の推進派であった大野伴睦の死去後、1970年(昭和45年)の中部圏開発整備本部の調査報告書において事実上の運河事業中止宣言とともに代替案として、ルートこそ大幅に異なるものの中部圏における南北の交通網整備が提言され、それが一因となって1970年代以降は東海北陸道の各事業区間で計画決定や着工が相次いだ。 しかしながら沿線では道路計画や土地収用に対する激しい抵抗もあり、特に岐阜市東部の芥見地域の住民説明会では当時衆院議員となっていた松野幸泰元岐阜県知事が「ルートを変える努力をする」と公言してしまった事から、道路公団は1973年(昭和48年)11月に「美濃以南路線問題専門委員会」を立ち上げ、従来計画の2.5 km東にずらした現在のルートに変更を余儀なくされた。同様の交渉難航によるルート変更の事例は愛知県でもあったという。また山間の岐阜県郡上郡大和町域などでは、道路整備そのものには賛同するものの買収価格に関して激しい駆け引きがあり、一部地権者が受け取った金額は相場の3倍にもなった。 このように事業用地の確保は一筋縄ではいかず、1976年(昭和51年)7月1日に道路公団名古屋建設局と岐阜県との間で用地買収に関する委託協定が結ばれ設立当初岐阜県庁の9人体制で始まった岐阜県高速道路事務所は、最盛期には21人まで増強する必要に迫られた。実際に、ある地権者との交渉は140回にも及んだという。 1986年(昭和61年)に東海北陸道初の開通区間となる岐阜各務原IC - 美濃IC(約19 km)が供用を開始した翌1987年(昭和62年)には、全国の均等な発展を目的に“多極分散型国土の形成”を掲げた第四次全国総合開発計画のもと国土開発幹線自動車道建設法が改正され、その中で北陸(とりわけ福井県)と首都圏との最短ルートの要となる中部縦貫自動車道の計画が具体化し、東海北陸道と飛驒地域で連結する運びとなった。これに伴い、従来高山市から20 km以上離れた国道156号沿いに計画されていた東海北陸道に関し、高山市や高山商工会議所、飛騨高山観光協会では1986年5月以降、高山市とのアクセス利便性を考慮した路線計画の策定を関係機関や国会議員に陳情。また建設省で道路局長や技監を歴任し後に参議院議員となった沓掛哲男によれば、福井県選出の重鎮福田一が御母衣ダムの南側で両高速道路を接続する構想を持ち出したが、富山・石川方面から東海北陸道・中部縦貫道を使って松本方面に抜ける際にV字の大回りを余儀なくされる事から、東海北陸道そのものを荘川村から東に迂回させ、高山市西部で中部縦貫道(松本方面)と接続した後に西向きに進路を変えて白川村付近で再び国道156号に沿いに復帰する現在のルートに変更されたという。そうして1988年(昭和63年)には環境影響評価準備書に新ルートが盛り込まれた。当時の試算では従来計画に比べ距離が約9 km延長するものの、工費は変わらないと試算されていた。 また、インターチェンジについても計画変更があり、当初構想にはなかった美並IC・ぎふ大和IC・高鷲ICの3インターチェンジが地域懇願により追加されている。うち美並ICについては当時の福田赳夫首相に直談判の末1978年(昭和53年)の整備計画で盛り込まれ、ぎふ大和IC・高鷲ICの両インターチェンジについては開発インターチェンジ制度を利用して1989年(平成元年)に設置が許可されたものである。
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