とこなめ‐やき【常滑焼】
常滑焼
常滑焼 |
とこなめやき |
陶磁器 |
茶器、花器、置物、植木鉢、壷、かめ |
古常滑焼とも言われる常滑焼の原型は、平安時代末期まで遡ることができ、日本六古窯のひとつに数えられています。平安時代には、仏教のお経を書いたものを入れて地中に埋め、ご利益を願うための経塚壺(きょうづかつぼ)が作られていました。 室町・安土桃山時代には茶の湯や生け花用品が主に作られ、江戸時代中期まではかめ、江戸時代末期からは、茶の湯や生け花用品に加えて暮らしの器が主な製品でした。そして明治時代からは、土管・洗面器や便器等の衛生陶器・タイル・植木鉢等も盛んに生産されました。豊富で良質な陶土に恵まれた産地ならではの、主力生産商品の移り変わりの歴史が、現在の幅広い商品構成につながっています。 |
愛知県 |
昭和51年6月2日 |
原料に含まれている鉄分を赤く発色させるのが特徴となっています。土肌を生かした製品、釉薬(ゆうやく)を施した製品等々、色々な製品が揃っています。 |
常滑焼
読み方:トコナメヤキ
愛知県常滑市を中心に知多半島一帯で生産されるやきもの。始め、奈良末期から平安時代にかけて須恵器と灰釉陶器を焼いた我国最大の窯業地・猿投群窯の支窯としてスタートした常滑焼は、平安末期から鎌倉時代にかけて中世古窯址群としては推定三千基以上にのぼる築窯跡を誇る当時随一の窯業地として繁栄した歴史をもつ。江戸後期には連房式登窯も導入された。明治初期、中国人金士恒が朱泥急須を伝授し、また鯉江方寿が英国式真焼土管の大量生産を開発した。二十世紀に入ると、倒炎式石炭焼成角窯が導入され、全国生産の過半を占める土管のほか火鉢、植木鉢、さらにタイルなど建築用陶器も量産、常滑窯業地は活況を呈した。
愛知県常滑市を中心に知多半島一帯で生産されるやきもの。始め、奈良末期から平安時代にかけて須恵器と灰釉陶器を焼いた我国最大の窯業地・猿投群窯の支窯としてスタートした常滑焼は、平安末期から鎌倉時代にかけて中世古窯址群としては推定三千基以上にのぼる築窯跡を誇る当時随一の窯業地として繁栄した歴史をもつ。江戸後期には連房式登窯も導入された。明治初期、中国人金士恒が朱泥急須を伝授し、また鯉江方寿が英国式真焼土管の大量生産を開発した。二十世紀に入ると、倒炎式石炭焼成角窯が導入され、全国生産の過半を占める土管のほか火鉢、植木鉢、さらにタイルなど建築用陶器も量産、常滑窯業地は活況を呈した。
常滑焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:11 UTC 版)
常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。
- ^ “磁器と瓷器の違いは…?”. 日本磁器誕生・有田焼創業400年事業 (2012年12月5日). 2015年5月閲覧。
- ^ 『柴山古窯址群』常滑市文化財調査報告第4集1974年常滑市教育委員会第二章1常滑市域の古窯址で杉崎章が総数1万基という推定数を示している。
- ^ 『柳之御所跡発掘調査報告書―平泉バイパス・一関遊水地関連遺跡発掘調査―』岩手県平泉町文化財調査報告第38集1994年平泉町教育委員会ほか平泉遺跡群の発掘調査報告書には、かならずといってもよいほど常滑焼の出土が報告されている。
- ^ 「草戸千軒町遺跡およびその周辺遺跡にみる常滑焼」佐藤昭嗣・鈴木康之『知多半島の歴史と現在』№4 1992年日本福祉大学知多半島総合研究所・校倉書房に詳しいが、草戸千軒町遺跡の報告書も刊行されており、常滑焼の出土が報告されている。
- ^ 『時代別古常滑名品図録』澤田由治編著1974年光工芸では江戸時代までの作品が採録され解説されているが、古常滑の範囲に関する記述は認められない。
- ^ 奈良テレビ放送(2020年11月10日)「郡山城外堀発掘調査 江戸時代の土塁や排水設備など見つかる。」
- ^ SankeiNews(2020年11月10日)「江戸後期の常滑焼土管が出土 奈良・郡山城」
- ^ a b 平尾秀夫「有松絞り産業小史と現況」『東邦学誌』第32巻第2号、2003年、 52頁。
[続きの解説]
「常滑焼」の例文・使い方・用例・文例
- 常滑焼という陶磁器
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常滑焼と同じ種類の言葉
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