峠戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
ウィルソンはテッサロニキから進撃しているドイツ軍を足止めしなければならなくなっていたが、その一方でモナスティールの隘路を進撃しているドイツXL軍団が側面にいた。4月12日、ウィルソンはモナスティール川、テルモピュレなどの峠から全てのイギリス軍を撤退させることを決定した。4月14日、ドイツ第9師団はモナスティール川の全域で橋頭堡を確保したが、この地点からの進撃はイギリス連邦軍の激しい砲火で停止させられた。ウィルソンの撤退行動に付随する防衛作戦には3つの防御線が存在した。1つ目はオリンパスとエーゲ海の間のプラタモン(Platamon)トンネル、2つ目はオリンパス峠、最後はセルビア(ギリシャ北部Servia、セルビア共和国ではない)の峠であった。この2本の隘路を通過して進撃をドイツ軍が行うことにより、イギリス連邦軍は効果的な防衛線を行おうとした。オリンパスの峠、セルビアの峠の防衛は第4、第5ニュージーランド旅団、第16オーストラリア旅団が担当し、翌日からの3日間、ドイツ第9装甲師団の進撃はこのために遅れを見せた。 プラタモンに繋がる尾根には荒廃した古城が存在したが、これを制しているイギリス連邦軍は海岸へと繋がる峠を押さえていた。4月15日、ドイツ軍の戦車大隊の支援を受けたオートバイ大隊が古城を攻撃したが、ドイツ軍はマッカイ大佐率いる第21ニュージーランド大隊に撃退され、作戦に大きな支障をきたした。その日遅く、ドイツ装甲連隊が到着、ニュージーランド大隊に山側から攻撃を加えたが、大隊はこれを撃退した。15〜16日の深夜、ドイツ軍は戦車大隊、歩兵大隊、オートバイ大隊を集め、戦力を増強した。数時間、ドイツ軍装甲部隊が海岸方面から攻撃を加えた後の夜明け頃、ドイツ歩兵部隊がニュージーランド軍の左側面の中隊を攻撃した。 この攻撃のためにニュージーランド大隊はピネオス川を横断して夕暮れまでにピネオスゴージュ(Pineios Gorge)の西へ撤退したが、犠牲者は少数で済んだ。しかしマッカイ大佐はその退却について、「たとえ全滅を意味したとしても4月19日まで防衛しなければならなかった」と通達された。大隊が峡谷を渡り終えた後、マッカイ大佐は防衛のために峡谷西端の艀を沈めさせた。ニュージーランド第21大隊は、まずオーストラリア第2/2大隊、後にオーストラリア第2/3大隊の増強を受けた。オーストラリア第2/5、第2/11大隊は、谷間を南西にザキントス島方面に移動、3日から4日の間、谷間の西口を押さえるよう命令された。 4月16日、ウィルソン卿はラミア(Lamia)でパパゴスと会談、部隊をテルモピュレイに退却させると伝えた。そこでブレーミー(Thomas Blamey オーストラリア軍)はテルモピュライへ撤退している間、マッカイ(Iven Giffard Mackay オーストラリア軍)とフライバーグ(Bernard Freyberg, 1st Baron Freyberg ニュージーランド軍)に防衛任務を負わせた。マッカイはラリッサを通る東西の防衛線を南からニュージーランド師団を支援させ、さらにサヴィージ、ザルコスらの部隊をドモコスを経由してテルモピュライへの撤退させた。イギリス第1機甲旅団はサヴィージの部隊がラリッサへ撤退するのを支援、その後、第6師団の撤退も支援した。フライバーグの部隊はニュージーランド師団と同じルートを撤退するアレンの部隊の撤退を支援した。イギリス軍は全部隊の撤退が完了するまで支援攻撃をおこなっていた。 4月18日朝、ピネイオス(pineios)川での戦いは終了し、ドイツ装甲部隊は浮き橋で川を渡り、ドイツ第6山岳師団はニュージーランド大隊を包囲して進み、これを殲滅した。4月19日、第XVIII山岳軍団はラリッサを占領、飛行場を手に入れ、また、イギリス軍の補給物資を入手した。ボロスの港(そこはイギリス軍が上陸した港でもあった)は4月21日陥落、ドイツ軍はディーゼル燃料、ガソリンなどを手に入れた。
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