山陰電気との競合とは? わかりやすく解説

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山陰電気との競合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 16:35 UTC 版)

松江電灯」の記事における「山陰電気との競合」の解説

開業から3年半が経過した1899年ごろから松江電灯では設備増強計画し始める。城山にあった最初発電所は、煤煙騒音について市民から苦情があったため、増設とともに城の東方松江市南田町に移すことも決定された。移転拡張資金調達のため1900年明治33年8月資本金を6万円へと増資する工事はまず1901年明治34年3月本社南田町へと移転次いで1902年明治35年5月新設75キロワット単相交流発電機据え付けて新発電所の運転を開始し追って旧発電所設備新発所へ移した。こうして発電力が109キロワットへと上昇した松江電灯では、電灯数が年内に1,000灯を越えている。 最初設備拡張完了した後、松江電灯積極的な設備投資をしばらく行うことはなく、資本金10年以上にわたって6万円固定されたままであった借入金増加から1900年代後半には業績低迷し1908年明治41年9月織原後任として3代目社長に就任した清原宗太郎発起人一人)は翌年下期まで無配断行し経営再建にあたっている。松江電灯停滞する反面1907年明治40年12月鳥取県西部西伯郡米子町現・米子市)では資本金20万円山陰電気設立される同社火力発電ではなく日野川水力発電旭発電所)を電源とし、1909年明治42年10月開業した松江電灯では燃料石炭価格の高騰から1906年8月電灯料金10燭灯で月額1円50銭、16燭灯で1円80銭へと引き上げていたが、水力発電電源とする山陰電気電灯料金10燭灯で月額60銭、16燭灯で85銭と安価であった。従って山陰電気西進し松江へと進出するならば松江電灯にとって打撃になるのは明らかであった山陰電気松江進出は、松江電灯1907年始めた需要僅少発電余力減少のため1909年より中止していた松江市内での動力用電力供給から始まる。電灯供給について1910年明治43年5月30日その許可を取得した山陰電気進出対し松江電灯では山陰電気からの電力購入図り1910年初頭より交渉を持つが料金面で折り合いがつかず失敗する5月山陰電気電灯供給許可を得ると、10月電灯料金をほぼ半減となる10燭灯月額80銭・16燭灯90銭に引き下げて防戦体制整えた。しかし単に大幅値下げをしただけでは収益低下必至であるため、松江電灯では自社でも水力発電乗り出すこととなった

※この「山陰電気との競合」の解説は、「松江電灯」の解説の一部です。
「山陰電気との競合」を含む「松江電灯」の記事については、「松江電灯」の概要を参照ください。

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