山陰遊歴
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天保11年(1840年)5月中仙道を通って京都に上り、神話の舞台を実地調査するため、因幡国を経て、8月出雲国広瀬に滞在、石見国浜田等を遊歴した。 次いで、文晁の養孫谷文一 (2世)の出身地丹後宮津藩に赴任し、天保12年(1841年)頃小林延庵と丹後国各地を巡って『丹哥府志』の挿絵を手がけ、8月10日山王宮日吉神社を訪れた。年末頃、社司牧正就宅に住み込んで扁額を手がけた。天保14年(1843年)3月12日正就・泉玄道と京都に出て、吉野で花見、伊勢神宮に参詣し、4月14日帰宅した。 天保15年(1844年)6月25日中郡峰山に移り、弘化2年(1845年)夏『合璧邪正訣』を著した。8月までに城崎に移り、湯島板屋に滞在し、出石藩の依頼で『皇国画史』を著した。冬、池田盛之助の招きで宿南村青谿書院に池田草庵を訪れた。 弘化3年(1846年)池田碩一郎の招きで姫路に移り、元塩町菅原専助方に滞在し、嘉永2年(1849年)頃、大坂に追放されていた市川團十郎 (7代目)と交流し、古典・有職故実を教えた。
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