山本家の来歴
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山本家は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市)の出身で、その来往は室町時代といわれているが明瞭ではない。祖先は山本清兵衛と称し、1175年(安元年中)清兵衛清澄の時に越後国に移転、関谷、山本なる地に移転した。その後、城資国(城資永の父)の乱(じょうすけくにの乱)越後平氏に参加し平民となり、一族は塔城山下の塔城村天神岡に移転した。1596年(慶長20年)には二代目山本又五郎が稲留流鉄砲術(稲富祐直)の印可状を受けた。初代が(1586年)天正14年に鋳造した「鰐口」が東京国立博物館に保存されている。1618年(元和4年)に堀直竒(正漢字)堀直寄(ほりなおより)が村上城に転封されるにあたり、現在の長井町に移転した。。 幕末期の1848~1855年(嘉永年中)には、村上藩主から江戸に召されて大砲2門を製作した。禁裏参内し1867年(慶応3年7月)第13代山本又五郎は「大監物兼大和守斉藤宿弥」から「御綸旨(ごりんじ)」禁裏御所御定目真継大和守」支配の鋳物師を受けている。(1854年(嘉永6年)黒船来航、1858年(安政の大獄 天皇は孝明天皇・明治天皇また徳川家茂・徳川慶喜大政奉還 慶応3年10月14日)) 村上大祭ーおしゃぎりは村上の名工「有磯周斎」によって製作されたものであるが、上町のおしゃぎりは、又五郎の家の祭りの際に「大梵鐘」を乗せた車を引かせていた名残である。大梵鐘には山本又五郎が1633年寛永10年に鋳金した「羽黒山大権現」の刻銘が記されている。また、長井町の鐘、塩町等の鐘も又五郎が鋳物したもので、年月と銘が刻鋳され代々引き継がれ鋳鐘されている。鐘の鋳方は鋳物師の技術の継承で、町々で音色が違う。鋳方、調合を替えて、鋳鐘したものと伝えられている。 長井町の「おしゃぎり」の鐘 全景 山本又五郎の刻鋳 昭和5年7月吉日の刻鋳 第15代又五郎の作品が1890年の第3回内国勧業博覧会第二部(美術)第四類(美術工業)に「銅製饕餮文花瓶」(径54.5高さ78.7)を出品され、宮内省が購入し(現・宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている。) 宮内庁所有品のため写真は未添付ですが、三の丸尚蔵館で開催された「古典再生 作家たちの挑戦」の図録に掲載されています。にリンクします。 19ページ(22枚目)東洋の美 新たなる挑戦にて作品を閲覧ください)宮内庁添付承認済。 山本家の代々の菩提寺は、村上市羽黒町の體真山(たいしんざん)満福寺にある。満福寺には昭和12年に建立した「鋳物の球形で、底部が獅子に囲まれている」墓碑が威風を漂わせている。(代々の又五郎の歴代履歴は満福寺の過去帳によるもの、同寺には山本一族の遺作が多く残されている。) 満福寺にある山本家墓碑 墓碑の周りを囲む獅子 第16代又五郎、八十八、および親族
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