家畜と性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 06:50 UTC 版)
妻売りがイングランド中でみられたことは明らかだが、隣のウェールズでは比較的珍しいものでありわずか数例があるのみで、スコットランドにいたっては1例しかみつかっていない。1760年から1880年の間にイングランドで最も多くの数字が記録されているのは44例のヨークシャー州で、これは同時期のミドルセックスとロンドンの19例よりもだいぶ多い。ロンドンに関していえば、フランスのジョン・ブルを描いた次のようなカリカチュアを考えれば意外なものでもある。「スミスフィールドの市場で馬の腹をけり、拍車をかけては叫ぶ『'à quinze livres ma femme!' (私の妻を15£で!)』。そのあいだ奥方は檻にひもでつながれて立っているのだ」。 387もの妻売りの事例を蒐集したサミュエル・メネフィーの著書「妻、売り出し中」によれば、最後に妻が売られたのは20世紀のはじめである。歴史家のE. トンプソンはメネフィーの記録の多くは「曖昧かつ疑わしい」と考えており、重複しているものもあるが、トンプソン自身が調べたおよそ400件と重ね合わせた上で典拠がはっきりしているものが300ほどあるとも述べている。 メネフィーはこのしきたりが家畜の売買と対をなしていると指摘している。ここで象徴的な意味をもつのが頭絡であり、つまり妻たちはちょうど家畜のように目方で価値をはかられることさえあったのである。実際に当時ロンドンのスミスフィールドには有名な家畜市場があったため、それにちなんで妻を売る行為はしばしばスミスフィールド・バーゲントとも呼ばれた。しかしトンプソンはそれだけでは取引の社会的な文脈をとらえそこねているのではないかという。市場は単にそこで家畜が売り買いされるから好まれたのではなく、妻と夫の離別を目撃してもらうことのできる公衆に開かれた場であったからだというのである。妻売りはよく定期市や居酒屋のまえ、その地域のランドマーク(プレストンのオベリスク(1817)、ボルトンのガス灯(1838)など)のそばでおこなわれていた。いずれも多くの人が集まることが見込める場所である。 夫が売られたという記録はまず残っていないし、現代の目からみれば、たとえ離婚の一形態と考えられていたにしても、家財のように妻を売ってしまうことは褒められたものではない。しかしそれでも、数多い当時の記録は女性の自立や快活な性についてのヒントを与えてくれる。「女性たちにはこんなコピーがつけられていた。『美形』、『豊満』、『雰囲気のよい』、『顔立ちの整った田舎娘』、『楽しみと悦びには熱心で素直』」。 17世紀後半から18世紀初頭にかけてアメリカに植民した人間が持ち込んだイングランドの風習の一つにこの妻売りがある。そしてイングランドからの入植者たちはそれが結婚を終わらせる法に則った手段だと信じているのだった。コネチカット州ハートフォードの「The P'ticular Court」では1645年のバジェット・イーグルトンの例がそうだ。この人物は「自分の妻を若い男に遺贈した」ことで20シリングの罰金を科された。ボストン・イヴニングポストが1736年3月15日に2人の男の口論を報じている。「ある女性をめぐって、どちらも自分こそが夫だと主張していたのだが、なんと一方がこの女性に関する権利を15シリングでもう一方に譲ったのだった」。買い手は満額を支払うことは拒否したようで、「自分の」妻を帰そうとするが、気前のいい2人の見物人から結構な額を受けとり、夫に金を払っている。売り主である夫は手早く「妻の幸せをいのるささやかな挨拶をすませると、掘り出し物を売ってえた資本金をお供に大いに楽しんだ」のである1781年にはサウスカロライナのウィリアム・コーリングという男が妻を「2ドルとグロッグを6杯」で売っている
※この「家畜と性」の解説は、「妻売り」の解説の一部です。
「家畜と性」を含む「妻売り」の記事については、「妻売り」の概要を参照ください。
- 家畜と性のページへのリンク