客星
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客星[1](かくせい、きゃくしょう、guest star[1])とは、それまで観測されなかった場所で突如として見えるようになり、一定期間後に再び見えなくなる恒星のことである。用語は、古代中国の天文記録に残された言葉からの翻訳である。近代天文学では、客星は激変星や新星、超新星であると理解されているが、古代の文献等でどの現象か明らかになっていないものを指す場合に、今でもこの言葉は使われている。古代中国の天文学では、客星は「新しい星」の3つのタイプのうちの1つだった。他の2つは、現代で言うところの彗星である。客星という言葉が記された最古の文献は漢時代の漢書に含まれる文献である[2]。
- ^ a b 『天文学大事典』(初版第1版)地人書館、147頁。ISBN 978-4-8052-0787-1。
- ^ Zhentao Xu, David W. Pankenier (2000) "East-Asian Archaeoastronomy: Historical Records of Astronomical Observations of China, Japan, and Korea", ISBN 905699302X, Chapter 6, "Guest Stars"
- ^ Paul Murdin, Lesley Murdin (1985) "Supernovae", ISBN 052130038X
- 1 客星とは
- 2 客星の概要
客星
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 05:27 UTC 版)
「客星」とは「ふだん見慣れない星」を意味するもので、超新星や新星、彗星などが含まれる。 『明月記』において「客星」が最初に登場する記事は、寛喜二年十一月一日条(1230年12月6日。以下本節において、漢字による日付はいわゆる旧暦(宣明暦)による記載、算用数字による日付はユリウス暦による記載)である。この時の「客星」の正体は彗星で、同四日条には定家による「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず」という観察が記されており、このほか日記中には不安を覚えた当時の人々の反応も記載されている。 この「客星」に触発された定家は、十一月二日に家に出入りしていた陰陽師の安倍泰俊(陰陽寮漏刻博士)に、過去の客星の出現例を問い合わせた。過去の客星出現の際にどのような凶事が起きたのかを知ろうとしたのである。八日に、泰俊は記録されていた過去の客星出現の記録8例のリストを報告書として定家に提出しており、定家は同日の日記の末尾に、この報告書を挟み込んだ。 この8例のうち、以下の3例が超新星の記録である。 明月記の記載(旧暦)ユリウス暦超新星名発生星座超新星残骸寛弘三年四月二日 1006年5月1日 SN 1006 おおかみ座 PKS 1459-41 天喜二年四月中旬以後 1054年 SN 1054 おうし座 かに星雲 (M1) 治承五年六月二五日 1181年8月7日 SN 1181 カシオペヤ座 IRAS 00500+6713 SN 1054 は、以下のように記録されている。 【原文】後冷泉院 天喜二年 四月中旬以降 丑時 客星觜参度 見東方 孛天関星 大如歳星 【原文読み下し】後冷泉院・天喜二年四月中旬以後の丑の時、客星觜・参の度に出づ。東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。 午前2時頃に、觜・参の星宿(おおむね現在のオリオン座にあたる)と同じ赤経にあたる、天関星(おうし座ζ星)付近に出現したとするもので、木星のように輝いていたというものである。ただし、時期については曖昧であり、旧暦四月中旬(1054年5月20-29日)ではおうし座が太陽方向にあたって超新星が観測できないため、「五月中旬」(1054年6月19-28日)の誤りであろうと考えられる。 『明月記』の記録を含む日本の「客星」記録は、1934年に『ポピュラー・アストロノミー』に掲載された。1942年、ニコラス・メイオール(英語版)やヤン・オールトらは、『明月記』の記録などをもととして、1054年の「客星」が超新星であり、かに星雲がその残骸であることを明らかにする論文を発表した。
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