大相撲・現役時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大相撲・現役時代の意味・解説 

大相撲・現役時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 01:19 UTC 版)

増位山太志郎」の記事における「大相撲・現役時代」の解説

小学生の頃から相撲が好きで、中学2年時に実父相撲界への入門志願したが断わられた。しかしどうして入門した理由から、「ここで許されないなら他の部屋に入る!」と切り出した為、父親折れて入門許し1967年昭和42年1月場所、瑞竜の四股名初土俵北の湖同期だった。ちなみに日大一中一高では水泳部競泳)に所属しインターハイ出場経験もあった。 三段目にいた1968年昭和43年5月場所から父の四股名である増位山継ぎ1969年昭和44年7月場所新十両2年余り関取の座を掴む。1970年昭和45年3月場所入幕したが負傷何度往復したその後上位進んで大負けし落ち繰り返しだったが徐々に三役定着し5度目三役昇進となった1979年昭和54年9月場所小結)から相撲ぶりが目立って良くなり、翌11月場所関脇11勝4敗と三役で初の二桁勝利を達成し、2場所連続三賞技能賞)を獲得。 そして翌1980年昭和55年1月場所初日横綱輪島を破るなどで、関脇地位連続二桁勝利12勝3敗をあげる。この3場所合計31勝で、直近の大関昇進事例比較する勝星数で劣るものの、当時大関貴ノ花1人しか居なかった番付上の状況もあり、場所後に大関昇進が決まる。本人曰く最初で最後大関獲り」のワンチャンスを見事ものにして、年6場所制が定着した1958年昭和33年1月場所以降初土俵力士では、旭國28歳11ヶ月上回る31歳2ヶ月当時最年長(現在では琴光喜31歳3ヵ月に次ぐ2番目)で、史上初の親子大関実現した。 しかし新大関1980年3月場所は、右ヒジ関節挫傷による怪我途中休場。場所後に昇進披露宴が行われ、相撲関係者のみならず俳優・歌手など 1500余り出席する豪華さ昇進場所での不振ぶりから「一億円の角番披露」と揶揄されるなど話題となった。いきなり大関角番となった5月場所は、8勝7敗と勝ち越して角番脱出その後も2場所連続の9勝6敗と1勝ち星がやっとで、1980年11月場所は3勝12敗と大きく負け越した2度目角番となった1981年昭和56年1月場所は、10勝5敗と増位山自身大関として唯一の二桁勝利を挙げたが、これが大関としての最高成績だった。 1981年3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化理由に、同3月場所5日目限り現役引退表明した取組相手予定だった隆の里不戦勝となる)。大関在位は僅か7場所で、「短命大関」としては年6場所制以降大受の5場所(関脇陥落)に次ぎ栃ノ心朝乃山と並ぶ史上2位タイである(大関地位引退した力士では歴代1位となる)。現役引退後18小野川襲名するとともに三保ヶ関部屋部屋付き親方として後進の指導あたった取り口ふわっとした立合い相手突進をそらし、右で廻しをつかむと投げ内掛け外掛け内無双多彩な技繰り出した中でも相手引きずるように打つ上手投げ上手出し投げ増位山独特のものだった2350歳くらいまでは1日150本くらい吸うヘビースモーカーだったのが病気をしてから一切吸えなくなった

※この「大相撲・現役時代」の解説は、「増位山太志郎」の解説の一部です。
「大相撲・現役時代」を含む「増位山太志郎」の記事については、「増位山太志郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大相撲・現役時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大相撲・現役時代」の関連用語

大相撲・現役時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大相撲・現役時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの増位山太志郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS