大相撲・親方時代
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1984年(昭和59年)11月に実父である9代三保ヶ関が停年(定年)退職になると、10代三保ヶ関を襲名して部屋を継承した。親方としては、名門・日本大学相撲部で活躍した学生相撲出身者を数多く入門させ、小結・濱ノ嶋、幕内・肥後ノ海、十両・増健などをはじめ、エストニア出身の把瑠都、ロシア出身の阿覧らをスカウトして関取に育てた。一方で先代三保ヶ関と同じく運営方針として所属力士の個人後援会を認めなかったことで吝嗇の傾向を指摘されることもあった。 なお、三保ヶ関部屋からは、2003年(平成15年)12月に11代木瀬が7人の内弟子を連れて分家独立、2006年(平成18年)8月に17代尾上が6人の内弟子(幕内・把瑠都、十両・里山など)を連れて分家独立している。また、父に似たのか多彩な趣味の持主で、絵画は二科展入選の常連である。 11代木瀬とは少なくとも独立の過程で険悪な仲になったようであり、部屋開きの際に10代三保ヶ関は招待状を渡されなかったことで憤慨したと伝わる。そうした経緯もあって大相撲野球賭博問題に揺れていた時期には11代木瀬と10代清見潟が暴力団と交際していることを暴露し、結果としてこの2人は維持員席問題により協会から処分を受けた。 日本相撲協会では、後述のように美声で通る声であるために審判委員を長期間務め、物言いがついた場合場内説明を任されるケースが審判部副部長就任前から多かった。2002年2月に監事(2008年に副理事に改称)に就任し、2012年1月まで5期10年務めた。在任中は審判部副部長を長く務めた。停年退職が近くなったため2012年2月に退任し、最後は役員待遇委員として監察委員会副委員長を務めた。 2013年11月場所限りで65歳の定年退職を迎えたものの、後継者がいないことから同年9月場所限りで三保ヶ関部屋の消滅が決定。三保ヶ関部屋消滅時に所属していた部屋関係者のうち床山だけは北の湖部屋へ、自身を含む親方2人と力士6人、世話人・行司各1人、呼出2人は春日野部屋へ、それぞれ10月3日付で移籍した。停年に際して1980年1月場所の初日に輪島を破った一番を思い出の相撲として挙げ「これまで十八連敗中でしたから、輪島関に勝って親子二代で大関昇進も決まりうれしかったです」と語っていた。
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