国際化するスターリング・ポンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:32 UTC 版)
「イングランド銀行」の記事における「国際化するスターリング・ポンド」の解説
1914年7月30日に4%だった金利を翌日に8%へ、8月1日には10%まで一気に引き上げ。特許状は停止せず。第一次世界大戦中はJPモルガンがイングランド銀行で発行する戦時債券の独占代理人であった。日本の鈴木商店(双日の前身)に巨額の融資を行った。 1919年4月、金本位制離脱。1925年9月に復帰する。この離脱期間に世界恐慌の第一波が起こる。国際カルテルが流行。 1924年10月、JPモルガンと引受地域を分担しドーズ公債を起債。翌年5月、政府が借款を受ける。 1928年、ヴィッカース・アームストロングの合併を援助していたのが実現。大蔵省紙幣とイングランド銀行券の発行が統合される。 1929年9月26日、世界恐慌の直前に金利引き上げ。FRB が6.0%であったが、イングランド銀行は5.5%から6.5%に。 1931年8月1日、フランス銀行とニューヨーク連邦準備銀行から5千万ポンド借り入れ。9月21日に金本位制離脱。金解禁していた日本からは10-11月に各月とも1.3億円超の正貨が流出した。 1934年、ニュージーランド準備銀行ができる。翌年、カナダ銀行とインド準備銀行が開設される。 1939年3月、ナチス・ドイツに全土を占領されたチェコスロバキア中央銀行が、国際決済銀行名義でイングランド銀行に預託している23.1トンの金準備をライヒスバンクに移すよう不本意な指図をさせられ、24日に国際決済銀行の担当部局が指図のままに口座を振り替えた。5月に財務大臣のジョン・サイモンが総裁のモンタギュー・ノーマンへチェコの金準備ではないかと確認を要請したが総裁は知らないと応えて、6月に44万ポンドの準備金が売却され内42万ポンドがニューヨークへ船積みされた。 1946年、国有化されるが運営目的は何も制限されず、金融監督権限を得る。 1947年7月、国際通貨基金に登録されたポンド平価 での交換性を一時的に回復するも、交換要求が殺到して6週間後に制限。 1949年、ポンド切り下げ により輸出が増加。準備総額は1950年代半ばごろ20億ドル以上に達した。
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