国民公会末期のルイ17世とその死とは? わかりやすく解説

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国民公会末期のルイ17世とその死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:05 UTC 版)

ルイ17世」の記事における「国民公会末期のルイ17世とその死」の解説

ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズルイ17世訪ねたバラス2人礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだバラス悪臭漂う独房の子供用小さなベッド衰弱したまま横になったルイ17世目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内驚愕する。バラス当時24歳だったマルティニック島出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功したローラン9月1日ルイ17世独房清掃2人男性に行わせ、マリー・テレーズ依頼されだらけのルイ17世ベッド処分し、彼女が使用していたベッドルイ17世使用させた。ローランは自らルイ17世入浴させ、身体たかった取り着替えさせた。室内家具カーテン焼却命じた。この日、ルイ17世医師診察受けたこの頃ルイ17世は、栄養失調病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろり大きくなった目、体中に黒や青や黄色ミミズ腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ローランタンプル塔屋上ルイ17世散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。 11月8日国民公会ルイ17世世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。ゴマンはルイ17世衰弱した姿に驚き国民公会の再視察依頼したルイ17世長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。11月末に役人のデルボイがルイ17世元にやってきたが、もうこの頃ルイ17世衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じたルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋過ごせようになった。ゴマンはルイ17世病状国民公会確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可得た。しかしルイ17世体調悪く独房の火の側で過ごしたこの頃にはフランス国内の空気変化しタンプル塔行われていたルイ17世への虐待現在の待遇国民話題となっていた。11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認め記事発表した関係者らは逮捕され国民公会連行され保安委員会マテューは公式に王党色の強い新聞記事否定し革命支持者のためにルイ17世一般囚人変わらぬ扱い受けていると説明したスペイン王室ルイ17世引き渡し条件フランス共和国認めると、1795年早い時期申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側要求拒否した。この当時ヨーロッパ外交において、ルイ17世見捨てられ存在であった1795年3月31日、エティエンヌ・ラーヌ(フランス語版)が世話係加わった。ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録残している。その後ローラン別の役職に就き、ゴマンが後見人となった5月8日ローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール=ジョゼフ・ドゥゾー(英語版医師によるルイ17世診察許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく死にかけている。最も救いがたい惨状放棄犠牲者で、最も残忍な仕打ち受けたのだ。私には元に戻すことができないなんたる犯罪だ!」と正直に意見述べた毎日午前中に往診訪れルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日招待され国民公会公式晩餐会の後、急に具合悪くなり、3日後に死去した彼の助手その後死去したので、暗殺疑われた。次の医師が決まるまで、重態ルイ17世治療受けられなかった。6月6日新たに主治医となったフィリップ=ジャン・ペルタン英語版医師治療向かった。彼は「子供神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官咎め日よけ外して新鮮な空気当たれるようにすることを命じた孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房鎧戸鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテン飾られ窓辺ルイ17世喜び、少し様態が改善した。 しかし、ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた。何の望みもなかった」と報告している。6月7日ルイ17世衰弱し一時意識を失う。夜遅く様態急変し、ペルタンは投与指示をして、翌6月8日朝に訪れたが、この時初めルイ17世瀕死の状態で昼夜とわず看護もされていないことを知った。ゴマンは看護婦求め行っている午後ルイ17世意識薄れ始めていた。午後3時ごろ、激し呼吸困難に気がついたラーヌは症状和らげようとルイ17世抱き上げ両腕を自らの首に回した。しかし間もなく長いため息の後、全身の力が抜けルイ17世短い生涯終わりを告げたルイ17世生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。独房に墨で書かれた「ママ、僕は…(Maman je)」という書きかけの言葉花の絵残されたことや、塔の屋上散歩出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋前にそっと置いたというエピソード残されている。

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