国民公会末期のルイ17世とその死
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「ルイ17世」の記事における「国民公会末期のルイ17世とその死」の解説
ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕する。バラスは当時24歳だったマルティニック島出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功した。 ローランは9月1日にルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世のベッドを処分し、彼女が使用していたベッドをルイ17世に使用させた。ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。室内の家具とカーテンの焼却も命じた。この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色のミミズ腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。 11月8日、国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。11月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。 この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のためにルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。 スペイン王室はルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側は要求を拒否した。この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。 1795年3月31日、エティエンヌ・ラーヌ(フランス語版)が世話係に加わった。ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録を残している。その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。5月8日にローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール=ジョゼフ・ドゥゾー(英語版)医師によるルイ17世の診察が許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた。毎日午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日に招待された国民公会公式晩餐会の後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。彼の助手もその後死去したので、暗殺が疑われた。次の医師が決まるまで、重態のルイ17世は治療を受けられなかった。6月6日、新たに主治医となったフィリップ=ジャン・ペルタン(英語版)医師が治療に向かった。彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び、少し様態が改善した。 しかし、ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた。何の望みもなかった」と報告している。6月7日、ルイ17世は衰弱し、一時は意識を失う。夜遅くに様態が急変し、ペルタンは薬の投与指示をして、翌6月8日朝に訪れたが、この時初めてルイ17世が瀕死の状態で昼夜とわず看護もされていないことを知った。ゴマンは看護婦を求めに行っている午後、ルイ17世の意識が薄れ始めていた。午後3時ごろ、激しい呼吸困難に気がついたラーヌは症状を和らげようとルイ17世を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。しかし間もなく、長いため息の後、全身の力が抜け、ルイ17世の短い生涯は終わりを告げた。 ルイ17世は生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。独房に墨で書かれた「ママ、僕は…(Maman je)」という書きかけの言葉と花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。
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