四国同盟構想と独ソ協調の破綻
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「独ソ不可侵条約」の記事における「四国同盟構想と独ソ協調の破綻」の解説
リッベントロップは反英思想からドイツ・ソ連・イタリア・日本のユーラシア四国同盟構想を持つようになり、ソ連および日本に対して本格的な同盟交渉を開始した。また日本においても高木惣吉、白鳥敏夫、松岡洋右といった人物が同様の四国同盟を構想するようになり、日独伊三国同盟の成立や日ソ中立条約の成立に結びついた。イタリアは既に1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでいた。 一方で1940年6月27日にソ連がルーマニア王国に圧力をかけ、ベッサラビアと北ブコビナを割譲させたことはヒトラーを怒らせた(ソビエト連邦によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領(英語版))。北ブコビナは秘密議定書に言及されておらず、ドイツ側はこれを協定違反と見なした。さらに6月30日、第二次ウィーン裁定によって独伊がルーマニアに保障を与えたことは、ソ連を刺激した。ヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗により、イギリスを屈服させるためにはソ連を打倒するほかないと考えるようになり、7月30日、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」として「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、準備を開始させた。8月18日にはドイツがフィンランドと協定を結び、9月18日からドイツ軍の駐屯を開始した(フィンランドとドイツの通過協定(フィンランド語版))。11月12日からはベルリンでヒトラーとモロトフの会談が開かれたが、事実上決裂した。なおも親ソ反英にとらわれていたリッベントロップは四国同盟案をモロトフに持ちかけた。スターリンはこれを見て同盟の対価はなおもつり上げが可能であると考えていた。11月26日のスターリンからの回答は「条件付きで同盟を受諾する」としながらも、その条件はドイツにとって受け入れ不可能であるフィンランドからの撤兵、ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の租借などであり、ヒトラーはこの申し入れについて何等回答しなかった。 12月18日には総統指令21号が発令され、1941年5月15日にソ連に対して侵攻を開始するという「バルバロッサ作戦」の作戦準備が指令された。その後も表面上両国関係は平穏であった。1941年1月10日にはソ連からドイツに物資を引き渡す協定と、ドイツがリトアニア領の引き渡し要求を放棄する協定が成立した。しかしソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした。ソ連側はこの対応に抗議を行ったが、スターリンはそれがいきすぎないように交渉者にブレーキをかけていた。この頃松岡外相がドイツを訪問し、リッベントロップに日ソ中立条約の件を話したが、リッベントロップは「こんな時期にそんな条約を結んでも何の益もない」と冷淡であった。しかし松岡は意に介さず、モスクワで中立条約を締結した。この際、モスクワを離れる松岡を見送ったスターリンは、ドイツ大使シェレンブルクの肩を抱いて「我々は友達でいなければならない!」「われわれは君たちと友達でいつづけなければならない!いかなる場合にもだ!」と叫んだ。当時ドイツ軍航空機の領空侵犯事件が頻発しており、軍情報部もドイツ侵攻の危険をスターリンに訴え続けたが、それらは無視、あるいは処罰された。アンドレイ・エリョーメンコ元帥は、スターリンがナチスと資本主義者を争わせることを望んでおり、ドイツへの防備体制の構築がヒトラーを刺激し、赤軍の準備が整わないうちに攻撃されることを怖れていたと回想している。 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連領内に侵攻を開始し、条約は事実上破棄された(独ソ戦)。リッベントロップは半狂乱となり、ソ連大使に対して「私がこの侵略に反対していたと言うことをモスクワに伝えてほしい」と述べた。スターリンも大きな衝撃を受け、ドイツ軍への爆撃は国境を越えないように指令するほか、日本を通じて交渉を開始しようとするほどであった。フリッツ・ヘッセはリッベントロップから聞いた話として、ブルガリアを通じてソ連から休戦が申し入れられたが、ヒトラーは勝利を確信していたため拒絶したとしている。 1941年7月12日、ソ連は同じくドイツと交戦していたイギリスと英ソ軍事同盟(英語版)を締結して連合国側に本格的に参戦することになった。
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